HISTORICAL PERSON · 2002年没

ロバート・ノージック

アメリカの哲学者。著書『アナーキー・国家・ユートピア』でリバタリアニズムの代表的思想家となり、最小国家論を主張した。

生涯
2002年没
死亡地
アメリカ合衆国(マサチューセッツ州 / ケンブリッジ)
出生地
アメリカ合衆国(ブルックリン区)
出典
世界地図
アメリカ合衆国(マサチューセッツ州)

伝記

ロバート・ノージックは、1938年11月16日にニューヨークのブルックリンで生まれたアメリカ合衆国の哲学者である。ロシア系ユダヤ人移民の家庭の出で、母の旧姓はソフィー・コーエン、父もコーエンという名で、ロシアのユダヤ人の集落から来て小さな事業を営んでいた。ブルックリンの公立学校で学んだのち、コロンビア大学に進み、哲学者シドニー・モーゲンベッサーに師事して、1959年に最優等で学士号を取得した。コロンビアでは、産業民主主義学生連盟の学内支部を設立するなど、当初は社会主義の活動に加わり、アメリカ社会党の青年組織にも入っていた。

ところがフリードリヒ・ハイエクの『自由の条件』に触れたことで、社会主義の理想から離れていった。リバタリアニズム(自由至上主義)の議論に満足のゆく反論を見つけられず、本人の言葉では「しぶしぶリバタリアニズムに引き込まれた」という。1959年に学部を終えると、バーバラ・フィーラーと結婚し、エミリーとデイヴィッドの二人の子をもうけた。のちに離婚し、女性詩人のギャートルード・シュナッケンバーグと再婚した。大学院はプリンストン大学で、科学哲学の著名な哲学者カール・ヘンペルに師事し、1963年に博士号を得た。1963年から1964年にかけては、フルブライト留学生としてオックスフォード大学に一年間留学した。のちにハーバード大学の哲学教授となり、同大学のジョセフ・ペレグリーノ記念教授職を務め、アメリカ哲学会の会長にもなった。

1974年の最初の著書『アナーキー・国家・ユートピア』は、ジョン・ロールズの『正義論』に対するリバタリアニズムの側からの答えとされる。この本でノージックは、「暴力、詐欺、窃盗からの保護と、裁判所の運営」だけに限られた最小国家だけが正当化でき、それ以上に広い国家は個人の権利を侵害すると論じた。その国家の成立を、アダム・スミスの「見えざる手」の考えにならって説明した。自然状態の個人が相互保護協会をつくり、これが商業保護協会となり、競争の中でその地域の支配的な協会が極小国家へと発展し、残りの独立者にも保護を提供して最小国家になる、という筋道である。財の分配は、同意した大人たちの自由な交換でもたらされたものなら、そこに大きな不平等が生じても正しいと考え、ロールズの格差原理に反対した。例として、観客がバスケットボール選手ウィルト・チェンバレンを見るために余分な金を払う場合を挙げている。基本の枠組みはジョン・ロックに従ったが、ロックの自然法は採らず、人間を単なる手段でなく目的として扱うべきだとするカントの定式を拠り所にした。最も議論を呼んだのは、自己所有を貫くなら、成人同士の合意にもとづく奴隷契約も認められるという主張である。この本で1975年に全米図書賞の哲学・宗教部門を受けた。

1981年の哲学論集『考えることを考える』では、知識についての反事実的な理論など、認識論の注目すべき主張を示し、翌年にエマソン賞を受けた。「なぜ何もないのではなく、ものがあるのか」の論文などで、分析的形而上学の開拓者の一人としても知られる。また、人が本当に望むのは快楽ではないと示すために、「経験機械」の思考実験を提示した。最後の著書『不変性』(2001年)では、進化によって不変性、そして客観性そのものが生じたとする宇宙論を述べた。胃癌との長い闘病の末、2002年1月23日に亡くなり、マサチューセッツ州ケンブリッジのマウント・オーバーン墓地に葬られた。同じ日にフランスの社会学者ピエール・ブルデューも亡くなっている。

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