HISTORICAL PERSON · 2002年没

カミーロ・ホセ・セラ

スペインの著作家。1989年にノーベル文学賞を受賞し、内戦終結後のスペイン文学を刷新した人物と評価されている。

生涯
2002年没
死亡地
スペイン王国(マドリード州 / マドリード)
出生地
スペイン王国(イリア・フラビア)
出典
世界地図
スペイン王国(マドリード州)

伝記

カミーロ・ホセ・セラは、1916年5月11日にスペインのガリシア地方ア・コルーニャ県パドロンのイリア・フラビアに生まれ、2002年1月17日にマドリードで亡くなった著作家である。1989年にノーベル文学賞を受賞した。1930年代のスペイン内戦の終結後に、スペイン文学を刷新した人物と評価されている。

9人兄弟の長男で、父はガリシア出身で地方新聞社を経営しつつ税関の役人でもあり、母はイギリスとイタリアにルーツを持っていた。セラ家は上位中産階級であった。1921年から1925年は一家でビーゴに住み、1925年にマドリードに移って、エスコラピオス修道会の学校で学んだ。1931年に結核と診断されて、グアダラマ山脈に近い療養所に入った。療養中は、のちに小説『安静の館』の題材となる経験をし、哲学者のホセ・オルテガ・イ・ガセットなどの作品を集中して読んだ。マドリード大学では当初は医学を学んだが、文学部の講義にも出席した。1936年、20歳のときにスペイン内戦が勃発した。政治的な思想は保守的で、フランコ率いる反乱軍の支配地域へ逃れ、兵士として入隊したものの、負傷してログローニョで入院した。

1939年に内戦が終結すると、いったんは法学を学びはじめたが、しだいに執筆に時間を割くようになった。初の小説『パスクアル・ドゥアルテの家族』は、26歳だった1942年に刊行された。この小説は、『ドン・キホーテ』に次いで2番目に多く読まれているスペイン文学とされることもある。1943年には検閲官となったが、皮肉なことに、セラの著名な作品の大部分はこの期間に書かれたとされる。1944年にマリア・デル・ロサリオ・コンデと結婚し、1946年に息子が生まれた。1951年にはブエノスアイレスで『蜂の巣』が刊行されたが、フランコ体制下では暴力的で粗雑とみなされて、スペインでは発禁処分となった。

1954年にマヨルカ島に移住した。フランコ体制下の1956年には、反ファシズムの性格を持つ文芸誌『アルマダンス亭草紙』を創刊し、発禁処分を受けた若い著作家たちに発表の場を与えた。アーネスト・ヘミングウェイと親しく、大きな影響を受けたと述べている。1957年にスペイン王立アカデミーの会員に推挙され、1977年から1979年には上院議員を務め、1978年憲法の草案を担当した。1984年に『二人の死者のためのマズルカ』でスペイン国民文学賞を受け、1987年にはアストゥリアス皇太子賞の文学部門を受賞した。1989年に『パスクアル・ドゥアルテの家族』と『二人の死者のためのマズルカ』などでノーベル文学賞を受け、1994年にはプラネータ賞、1995年にはセルバンテス賞を受けた。1996年には文学活動の功績により、スペイン国王から侯爵位を授けられ、1999年には関西外国語大学から名誉博士号を贈られた。2000年には名前を冠した私立大学が開学した。

私生活では、1990年にロサリオ・コンデと離婚し、翌1991年にジャーナリストのマリーナ・カスターニョと結婚した。カスターニョはセラよりも41歳若かった。2002年1月17日、85歳で心臓病のため亡くなり、故郷パドロンの教区墓地に埋葬された。遺言では、最初の妻との間の息子ではなく、2番目の妻を優遇した。

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