伝記
フランシスコ・ヘント・ロペス、通称パコ・ヘントは、1933年10月21日にスペイン北部カンタブリア州のグアルニソで生まれたサッカー選手である。レアル・マドリードで左ウイングとして活躍し、チャンピオンズカップで6度の優勝を果たした。小柄ながら体が強く、卓越した俊足に加えて技術にも優れ、左ウイングとしては得点能力も高かった。
父はトラックの運転手で、地元クラブの選手でもあった。ヘントは14歳で学業をやめ、父を助けて小さな農場の牛の世話をした。15歳ごろからサッカーを始めて地元のクラブに入り、陸上競技も並行して行っており、これがのちに名を高める足の速さを育てたといわれる。幼いころの夢はラシン・サンタンデールでプレーすることで、地域リーグのクラブやラーヨ・カンタブリアなどを経て、1952-53シーズンにそのラシンに加わって夢をかなえた。リーグ戦には10試合に出て2得点を挙げた。1953年2月22日にバルセロナ戦で一部リーグにデビューしたとされる。翌シーズン、20歳でサンティアゴ・ベルナベウ会長のレアル・マドリードと契約した。
レアル・マドリードには18年間在籍し、リーグ優勝12回、チャンピオンズカップ優勝6回を含む計23のタイトルを獲得した。1950年代にはアルフレッド・ディ・ステファノらを擁する第1次黄金期の一員として、チャンピオンズカップ5連覇を成し遂げた。ディ・ステファノの信頼は厚く、移籍直後に他クラブへ貸し出される予定だったヘントがクラブに残れたのは、この人物の働きかけによるとされる。ディ・ステファノはさらに、プレーしやすいようにエクトル・リアルの獲得もクラブに進言した。1960年代中ごろには、若手が多く「イエイエ・マドリード」と呼ばれたチームで9シーズンにわたりキャプテンを務め、1966年に久しぶりのチャンピオンズカップ優勝を導いた。この大会には1955年から1969年に通算43試合に出て5得点を挙げた。シーズン2桁得点を10シーズン記録し、1965-66シーズンにはチームの得点王となった。引退時には、ディ・ステファノとプスカシュに次ぐクラブ史上3位の得点者だったという。
スペイン代表には1955年に初めて招集され、代表では43試合に出場した。これは当時のスペイン最多であった。ワールドカップには1962年と1966年の2度出場し、1964年には第1回の欧州ネイションズカップを制した代表の一員でもあった。足の速さは晩年に衰えたが、それでも強力な選手であり続けた。
1971年に引退すると指導者となり、レアル・マドリードの下部組織であるカスティージャを率いた。その後はカステリョン、パレンシア、グラナダなど下部リーグのクラブで監督を務め、レアル・マドリードの欧州でのアンバサダーも引き受けた。1997年からはカンタブリア州代表の監督も兼ねた。1996年にはカンタブリア政府からスポーツ功労の金メダルを贈られ、ほかにも国のスポーツ功労金メダルを2度、またイサベル・カトリック十字章を受けた。20世紀の偉大な選手の一人にも選ばれている。2014年に亡くなった盟友ディ・ステファノの後任として、レアル・マドリードの名誉会長に就いた。2022年1月18日にマドリードで死去し、88歳であった。2人の弟フリオとアントニオ(トニン)もサッカー選手で、甥のフランシスコ・ジョレンテや、その息子マルコス・ジョレンテもレアル・マドリードでプレーした。
同じ年に亡くなった人物
- ラルス・フォークト (2022年没)
- ジョ・ソアレス (2022年没)
- チャールズ・エドワード・グリーン (2022年没)
- ハーム・オッテンブロス (2022年没)
- ムワイ・キバキ (2022年没)
同じ地域に関係する人物
- フランク・ブラナ (2012年没)
- プルデン (1998年没)
- アントニオ・アギラ (1908年没)
- Pedro de Ribadeneira (1611年没)
- Forges (2018年没)