伝記
トーベ・マリカ・ヤンソンは、1914年8月9日、当時フィンランド大公国だったヘルシンキに生まれた、スウェーデン系フィンランド人の画家、作家である。母シグネ・ハンマシュティエン=ヤンソンはスウェーデン=ノルウェー出身の画家、父ヴィクトルはスウェーデン語系フィンランド人の彫刻家だった。二人はパリの芸術学校に留学した時に出会い、1913年に結婚してモンパルナスで暮らしはじめたが、留学資金が尽きたことや第一次世界大戦の勃発でフィンランドに戻った。フィンランドではスウェーデン語の話者は少数で、ヤンソン家は言語の面で少数派だった。シグネは生後の娘を似顔絵と文章で記録しており、1歳半のトーベは歩くより前に絵を描くことを覚えていたようすがうかがえる。1918年のフィンランド内戦では、ヴィクトルが兵士となり、シグネは娘とともに故郷のストックホルムで暮らした。
ヤンソン家は芸術家向けの集合住宅に移り、トーベと弟たちは芸術と家庭が混ざり合う環境で育った。彫刻家の仕事は不安定で、シグネが1924年に銀行の印刷局に勤めたのが唯一の定収入だった。トーベは子供のころから家計を心配し、絵の仕事で母を助けたいと日記に書いた。学校の規律と詰め込み教育は合わず、のちに学校の記憶はほとんどないと語っている。自作の挿絵入りの雑誌を作って学校で売り、夏にはスウェーデンの親戚がいるペッリンゲ群島の島で過ごした。ここでの体験は、のちのムーミンなどの作品の題材になった。14歳のとき、スウェーデン語系の週刊誌に詩と絵が載り、これが作家デビューとなった。1929年には政治風刺の雑誌『ガルム』に最初の風刺画が載り、続いて同誌で、2匹の幼虫が主人公の絵物語を連載して、プロとしての歩みを始めた。
1930年に工芸専門学校に入学し、広告やデザイン、美術工芸、印刷を学んで、1933年に修了した。教授はそのテンペラ画を見て美大の受験を薦めたが、彼女は受験せず、ヘルシンキの家族のもとに戻って、夜間の絵画コースに通いながら、挿絵や表紙、ポスターなどの仕事を重ねた。1934年には最初の短編小説を書き、新聞に掲載された。絵画コースでは男性が優先され、1935年春に1等を取りながら、展示では男性の作品のほうがよい場所に飾られるなど、性差別を経験した。学生仲間とアトリエを構え、1938年1月にはパリで暮らしはじめた。画家のマティスを敬愛してエコール・デ・ボザールに入学したが、2週間でやめ、スイス人画家が開いたアトリエで自分のペースで制作した。1939年には奨学金でイタリアを旅し、ルネサンス芸術を好んだ。
帰国して1か月後の1939年9月に第二次世界大戦が始まった。弟たちも兵士となり、トーベは戦争以外のことへ関心を向けようとして、アトリエでパーティーを催した。パリ生活をもとにした短編が好評を呼び、『ガルム』の風刺画はヒトラーやスターリンも題材にして、人気を得た。のちのムーミンとなるキャラクターは、1943年に同誌に初めて登場した。1943年に最初の個展を開き、1944年には塔のように天井が高いアトリエに移って、生涯使った。1945年に最初のムーミンの物語『小さなトロールと大きな洪水』が出版され、1946年には2作目、1948年には『たのしいムーミン一家』が続いた。2001年6月27日に亡くなった。
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