伝記
クリスチャン・ニーソリング・バーナードは、1922年11月8日に南アフリカ連邦のケープ州ビューフォート・ヴェストで生まれた心臓外科医である。父アダムはオランダ改革派教会の牧師で、混血の人々への宣教師として働いた。母マリア・エリザベス・デ・スワルトは、生き残った息子たちに、心に決めればなんでもできるという信念を教えた。兄弟のひとりアブラハムは先天性の心臓の病気で、3歳で亡くなっている。1940年に地元の高校を卒業し、ケープタウン大学の医学部で学んで、1945年に医師の資格を取った。
グルート・スキュール病院で研修を受けたあと、ケープ州の田舎町セレスで一般開業医として働いた。1951年にケープタウンに戻り、市立病院の上級研修医を務めるとともに、グルート・スキュール病院の内科にも勤務した。1953年に修士号と医学博士号を取り、博士論文の題は「結核性髄膜炎の治療」だった。若いころ、犬を使った実験で、新生児の命に関わる腸閉鎖の研究にも取り組んだ。43回の試みの末に、胎児の腸への血流を一部止めることで同じ状態を再現し、血流の足りない腸管を切除して治す方法を見いだした。この方法はケープタウンで10人の赤ん坊を救い、イギリスやアメリカの外科医にも採り入れられた。結核性髄膜炎の259例を分析した研究もある。
1955年末、ミネアポリスのミネソタ大学に2年の奨学金で留学し、外科主任のワンゲンスティーンのもとで腸の研究を命じられたが、のちに人工心肺に触れ、開心術の先駆者ウォルト・リレヘイの診療チームに移ることを許された。ほぼ同じころ、のちに日本初の心臓移植を行う和田寿郎も、リレヘイのもとで指導を受けていた。1958年に帰国してグルート・スキュール病院の実験外科部門の長に任じられ、南アフリカの心臓外科の体制づくりに奔走しながら、動物で心臓移植の実験を重ねた。
1967年12月3日、ケープタウンのグルート・スキュール病院で、交通事故で脳死状態となった若い女性の心臓を、54歳(55歳とする資料もある)の男性ルイス・ワシュカンスキーに移植する世界初の人から人への心臓移植を行い、成功させた。バーナードは手術の成功率を8割と夫妻に伝えていたが、この説明は誤解を招くとして批判されている。ワシュカンスキーは術後に意識を取り戻して妻と会話もできたが、拒絶反応を抑える薬の影響が大きい肺炎のために、18日後に亡くなった。1968年1月2日にはフィリップ・ブレイバーグに2例目を実施し、約19か月の生存に成功した。ドナーが黒人で、受ける側が白人だったため、アパルトヘイトと絡めた批判も起きたが、本人はこの制度に否定的だった。1983年に手の関節リウマチで外科医の道を終え、それまでに49例の心臓移植を実施した。
晩年は知名度を生かしてレストランや牧場の事業に参画し、スイスのクリニックの顧問も務めた。羊の胎児エキスを使う若返り治療で物議を醸した分野に関わり、1986年にはグリセルという高価なクリームの宣伝に加わって評判を落とした。心臓の病気を持つ子供たちを助ける基金も設立した。2001年9月2日、滞在先のキプロスで死去した。78歳だった。ケープタウンには、その名を冠した病院がある。
同じ年に亡くなった人物
- アレクサンドレ・ジャニー (2001年没)
- 左幸子 (2001年没)
- Leamon King (2001年没)
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- Pavel Schmidt (2001年没)
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