伝記
エーリク1世は、1060年ごろ、デンマークのシェラン島北部スランゲルップに生まれた。父は国王スヴェン2世で、母の名は分かっていない。後に善良王と呼ばれる。異母兄クヌーズ4世の治世には王を熱心に支持したが、王に対する反乱が起きた際には死を免れた。クヌーズがオーデンセの聖アルバン修道院へ向かったとき、エーリクは同行せず王領の農場に残っていたのである。兄は修道院で殺害されたが、エーリクは農場から脱出し、シェラン島を経て、当時デンマーク領だったスコーネへ逃れた。王位には兄弟のオーロフ1世が選ばれた。
1095年、エーリクは各地の民会で王に選ばれ、オーロフの跡を継いだ。前王の治世に国を苦しめた飢饉が終わったことは、新王を支持する人々には、神がふさわしい王を示した徴と受け取られた。エーリクは民衆に親しまれ、弁舌に優れていたとされる。民会が終わると周辺の家々を訪ね、男女や子どもたちに挨拶して回ったという。4人の男が動かそうとしてもその場から動かなかったという、大柄で力の強い王の逸話も伝わる。その一方、声が大きく宴会を好み、私生活は放縦ともいわれた。強い王権を支持したとみられるが、有力者とは交渉を重ねて衝突を避けたようである。強盗や海賊に対しては容赦しないとの評判もあった。
妃はボーディル・スルーゴッツダッテルで、二人の間には1096年にクヌーズ・レーヴァートが生まれた。ほかにハーラル・ケシャやエーリク、娘ラグンヒルらの子もいた。ローマで教皇と会見した際には、亡き兄クヌーズ4世の列聖と、デンマークに独自の大司教座を設けることを求めた。これによってハンブルク・ブレーメン大司教の管轄から離れ、スコーネのルンドに大司教座を置く道が開かれ、アッサーが初代大司教となった。その後、ヴィボーの民会で聖地へ巡礼すると発表した。巡礼のきっかけは、宴席で自分の家臣を殺したことにあるとされる。楽師の演奏で狂乱に陥り、4人を殺したという伝説もある。人々に引き止められても決意を変えず、息子ハーラルとアッサーを摂政に定めた。
エーリクとボーディルは大勢の従者を伴い、ロシアを経由してコンスタンティノープルへ向かった。都ではビザンツ皇帝の客として迎えられたが、滞在中に病にかかった。それでもキプロス行きの船に乗り、旅を続けた。1103年7月10日、同島のパフォスで死去し、王妃によって現地に葬られた。第1回十字軍がエルサレムを攻略した後、巡礼に出た最初の国王であった。ボーディルも病を得たが、エルサレムまで到達したのちに没し、オリーブ山の麓にあるヨシャファトの谷に葬られた。
息子クヌーズ・レーヴァートはシュレースヴィヒ公となり、礼儀正しく人気のある王子とされた。しかし1131年1月7日、王位をめぐる有力な競争相手とみなしたマグヌスに殺された。マグヌスはニルス王の息子で、エーリクの甥にあたる。殺害の数日後にはクヌーズの息子ヴァルデマーが生まれた。エーリクのもう一人の息子エーリク2世も王位につき、娘ラグンヒルとヘーコン・スンニヴァッソンの息子も、国王エーリク3世となった。孫ヴァルデマーは1157年から1182年までデンマーク王として統治した。
同じ年に亡くなった人物
- ギータ・オブ・ウェセックス (1103年(推定))
- イツハーク・アルファーシー (1103年)
- ハインリヒ1世 (アイレンブルク伯) (1103年没)
- ウード1世 (ブルゴーニュ公) (1103年没)
- マグヌス3世 (ノルウェー王) (1103年)
同じ地域に関係する人物
- クリスチャン・バーナード (2001年没)
- ヴェルフ1世 (バイエルン公) (1101年没)