伝記
ペリー・コモは、1912年5月18日にペンシルベニア州のキャノンズバーグで生まれ、2001年5月12日にフロリダの自宅で没したアメリカ合衆国の歌手である。イタリア系で、フランク・シナトラと並ぶ大物エンターテイナーとして、多くのテレビ番組やステージで活躍した。
ピエリーノ・ロナルド・コモとして、ピッツバーグの南西約32キロの町に生まれた。10人きょうだいの7番目で、アメリカで生まれた最初の子である。父ピエトロと母ルチア・トラヴァリーニは、1910年にイタリアのアブルッツォ州の町パレーナからアメリカへ移住していた。家ではイタリア語を話していたため、英語を話し始めたのは学校に入ってからだった。父は製粉所の労働者で、アマチュアのバリトン歌手でもあり、苦しい家計をやりくりして子どもたち全員に音楽を習わせた。ペリーも多くの楽器を覚えたが、歌のレッスンは受けなかったという。10歳から家計を助けるため、学校の前後に理髪店で働いて週50セントを得た。13歳で自分の椅子を持ち、14歳で父が重い心臓病のために働けなくなると、兄弟とともに一家の生計を支えた。当時の最大の夢は、キャノンズバーグで一番の理髪師になることだったという。ギリシャ人の経営する軽食店の一角で理髪店を営み、結婚式の前の新郎に歌を聞かせて「結婚式の床屋」と評判になった。
理髪店の見習いをしていた頃、町の歌声コンクールで優勝したのをきっかけに、1936年に歌手としてデビューした。「歌う床屋さん」と呼ばれて親しまれた。フレディ・カーロン楽団の専属歌手として活動中に、テッド・ウィームスの目に留まって専属歌手となった。しかし戦争の余波で楽団が解散し、いったん理髪師に戻った。やがて歌声への期待が高まり、ラジオのCBS放送で自分の番組を始め、1943年にはRCAレコードと契約した。デビュー曲は「グッド・バイ・スー」で、1945年の「時の終わりまで」は初のミリオン・セラーとなった。数本の映画にも出たが、すぐに手を引き、ラジオとテレビを活用してスターへの道を歩んだ。初期の歌唱はビング・クロスビーによく似ていたが、やがて独自のスタイルを確立した。ノベルティ・ソングも多く録音した一方で、真価はバラードにあったとされ、「魅惑の宵」(1949年)、「イフ」(1951年)、「イッツ・インポッシブル」(1970年)、「アンド・アイ・ラブ・ユー・ソー」(1973年)などのヒットがあり、全米ナンバー・ワンになった歌は14曲を数える。
1953年には14年続く長寿番組「ペリー・コモ・ショー」が始まり、日本でも1959年12月から2年間放送された。1967年以降は毎年のようにテレビ特番を制作し、1994年までに40本に達した。レコード会社はデビュー当時から40年以上にわたりRCAに所属した。待遇のよい会社へ移るのが常識だったアメリカでは珍しく、誠実な印象を与えたという。マフィアとの関係を嫌ってカジノでの公演を拒み続け、スキャンダルの少ない歌手として知られた。1979年には初来日公演を行い、あたたかく優しい歌声は時代を超えて支持されている。1999年には故郷に等身大の彫像が建てられ、没後の2002年にはグラミー賞の生涯業績賞を受けた。
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