伝記
ヴィットリオ・ガスマンは、1922年9月1日、イタリアのジェノヴァに生まれた俳優、監督、脚本家、作家である。父はドイツのカールスルーエ出身でイタリアに移民した土木技師ハインリッヒ・ガスマン、母はピサ出身のユダヤ系のルイザ・アンブロシ(旧姓アンブルーン)で、裕福な家庭だった。ファシストとナチスの時代の真っただ中の1934年、母は姓を改め、同時に息子たちの姓からも最後の「n」を削った。5歳のとき、父がレッジョ・カラブリア県パルミでの団地建設に携わったため、1年間そこで暮らした。この短いカラブリアでの体験を彼はしばしば語り、のちに映画『イル・マッタトーレ』の中でも触れている。6歳で一家はローマに移った。古典高等学校を卒業し、法律学校に入ったが卒業はせず、国立演劇アカデミーにも通った。この学校では、パオロ・ストッパ、リナ・モレッリ、アドルフォ・チェリらが学び、のちにニーノ・マンフレーディやモニカ・ヴィッティ、ルカ・ロンコーニらも学んでいる。運動に秀でた体格を生かしてバスケットボールの選手としても知られ、1942年にはブルーノ・ムッソリーニの名を冠したチームで、大学代表として選手権の決勝を戦った。
舞台には1942年から43年ごろに立った。その後、ローマのエリゼオ座で、ティーノ・カラーロ、エルネスト・カリンドリとトリオを組み、ブルジョワ・コメディから知的な演劇まで変幻自在に演じた。ルキノ・ヴィスコンティの一座では、パオロ・ストッパ、リナ・モレッリらと成熟した演技を見せ、テネシー・ウィリアムズの『欲望という名の電車』ではコワルスキーを演じた。映画には1945年にデビューしたが、その作品は現存せず、残っている最初の出演作は1946年のものである。1947年のマリオ・ソルダーティ監督作で広く名を知られ、1949年にはジュゼッペ・デ・サンティス監督の『にがい米』で、初期ネオリアリズムの傑作のひとつに出演して初の大成功を収めた。
1952年にはルイージ・スクァルツィーナとともにイタリア芸術劇場を設立し、演出を担った。イタリア初の『ハムレット』完全版を上演し、セネカやアイスキュロスの珍しい作品も取り上げた。1954年にはシラクサで『鎖を解かれたプロメテウス』に出演し、1960年にはピエル・パオロ・パゾリーニの訳した『オレステイア』を取り上げた。1955年には、サルトルが手を加えたデュマの『キーン』を上演している。1956年には名優サルヴォ・ランドーネと『オセロー』を演じ、毎晩ムーア人とイアーゴーを入れ替わった。同年、キング・ヴィダー監督の『戦争と平和』に出演し、国際的な名優の地位を確立した。1959年にはテレビ番組『イル・マッタトーレ』で思いがけない成功を収め、この言葉が生涯のあだ名になった。
1958年の『いつもの見知らぬ男たち』で大成功を収めたあと、1960年代は映画の面できわめて実り多い時期となった。それまで演じていたスポーツ映画の役や魅力的な悪役に加えて、モニチェッリ監督の作品で喜劇の才も明らかにした。ディーノ・リージ監督のもとでも『追い越し野郎』(1962年)などで人気を得た。1969年には、自伝的な映画を共同で監督した。私生活では6人の女性との関係があり、うち3人と結婚して4人の子をもうけた。息子のアレッサンドロ・ガスマンも俳優となった。双極性障害を患っていたらしいとも伝えられる。2000年6月29日、ローマの自宅で眠っている間の心臓発作により、77歳で亡くなった。遺体は火葬され、遺灰はヴェラーノの墓地に葬られた。
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