伝記
小渕恵三は、1937年6月25日に群馬県吾妻郡中之条町で、製糸業を営む小渕光平(のち衆議院議員)の次男として生まれた政治家である。父の意向で中学1年のとき学習院中等科に編入したが、名家の子息が多く居心地は悪く、「群馬」というあだ名でいじめられたという。そのため外部の高校を目指し、東京都立北高等学校を経て、二浪ののち早稲田大学第一文学部英文学科に進んだ。在学中に父が衆議院議員の在職中に脳梗塞で亡くなると、政治家になるためのスキルを得ようと、雄弁会や合気道部をはじめ数多くのサークルに加わった。1960年の総選挙のときは23歳で被選挙権がなく、地元では伊能芳雄らが立ったが落選し、それが結果的に小渕の政界進出を導いた。
1963年、早稲田大学大学院に在学中に海外視察へ出て、沖縄を皮切りに38か国を歴訪した。同年11月の総選挙に旧群馬3区から自民党公認で出馬して初当選し、当時史上最年少の26歳での当選となった。福田赳夫、中曽根康弘らがひしめく激戦区で、自らを「ビルの谷間のラーメン屋」にたとえたが、議席を保ち続け、連続12回当選した。1967年に結婚し、自民党内では佐藤派、田中派、竹下派と保守本流を歩んで、竹下登に一貫して師事した。1970年の郵政政務次官のときは、自ら郵便配達に加わって職員を驚かせた。1972年の自民党総裁選では同郷の福田ではなく田中角栄に投票したため、群馬県民の怒りを買って、年末の総選挙で苦戦した。1979年に総理府総務長官兼沖縄開発庁長官として42歳で初入閣し、1987年に竹下内閣の官房長官となり、官房副長官の小沢一郎とのコンビは「小・小コンビ」と呼ばれた。
官房長官時代の1989年1月7日、昭和天皇の崩御を受け、総理大臣官邸の記者会見で「新しい元号は『平成』であります」と新元号を発表した。「平成」と書かれた色紙の額を掲げる姿は昭和から平成への移り変わりを象徴する映像となり、小渕は「平成おじさん」として広く知られるようになった。1991年に自民党幹事長に就任し、1992年に竹下派会長の金丸信が議員辞職に追い込まれると、後継をめぐって小沢一郎と対立した。小渕は竹下の後ろ盾で後継の派閥領袖となったが、羽田孜、小沢らは反発して離れ、経世会は分裂した。1994年に自民党副総裁になったが、重要閣僚の座からは遠ざかり、1995年には群馬県連会長も退いて、地元では政治生命は終わりといった声もあった。しかし1997年9月に外務大臣として復帰し、対人地雷全面禁止条約の締結に積極姿勢を示して導き、評価を高めた。
1998年7月30日、参議院選挙での敗北の責任をとった橋本龍太郎の後継として首相に就任した。当初は批判を浴び、同年11月のNHK調査で支持率は20%にとどまった。しかし自由党、公明党との連立や経済の回復、外交の実績で基盤は安定し、1999年8月には支持率が53%まで回復した。2000年4月2日に脳梗塞を発症して順天堂医院に緊急入院し、内閣は4月4日に総辞職した。後任の総裁には森喜朗が選ばれた。首相は公邸に戻っても大量の書類や新聞の切り抜きに目を通し、さまざまな人に直接電話をかける「ブッチホン」でも知られたが、こうした激務が健康を損ねたと考えられている。5月14日に死去した。
同じ年に亡くなった人物
- ティト・プエンテ (2000年没)
- ベンジャミン・オール (2000年没)
- ジョージ・レドヤード・ステビンズ (2000年没)
- アウグスト・バルガス・アルサモーラ (2000年没)
- ハリー・オッペンハイマー (2000年没)
同じ地域に関係する人物
- クリスチャン・ビルケランド (1917年没)
- 篠島秀雄 (1975年没)
- 鈴木春信 (1770年没)
- 摩文仁賢和 (1952年没)
- 石ノ森章太郎 (1998年没)