伝記
篠島秀雄は、1910年1月21日、栃木県上都賀郡日光町(現在の日光市)に生まれた。東京府青山師範学校附属小学校から東京高等学校の尋常科へ進み、さらに同校高等科の文科乙類を経て、1928年に東京帝国大学に入学した。東京高等学校の蹴球部では、のちに指揮者として知られる朝比奈隆と同学年だった。朝比奈より年下だったが、飛び級の結果、同じ学年になったのだという。
東京帝大ではア式蹴球部に入り、主将も務めた。同部の仲間には、竹腰重丸、竹内悌三、若林竹雄といった日本代表の選手もいたとされる。在学中の1930年(昭和5年)5月、東京で開かれた第9回極東選手権のサッカー日本代表に選ばれた。5月25日のフィリピン戦で代表デビューを果たし、5月29日の中華民国戦にも出場して1点を挙げた。出場は2試合で、日本はこの大会で優勝し、篠島も優勝に貢献した。彼が所属した東京帝大のクラブは、1931年の天皇杯でも優勝したとされる。
1931年に東京帝国大学法学部を卒業すると、三菱鉱業(現在の三菱マテリアル)に入社した。1941年3月には田邊五兵衛商店(現在の田辺三菱製薬)に移って専務取締役となったが、同じ年の6月から1942年6月までは兵役に就いた。戦後の1945年11月に三菱化成工業(現在の三菱ケミカル)に入り、黒崎工場長、専務、副社長を経て、1964年7月、佐藤止戈夫社長の死去を受けて社長に就任した。財界では1974年5月に日本経営者団体連盟の副会長となったが、同年4月に健康を損なっていたという。
サッカーとの縁も生涯続き、1965年から1975年まで日本サッカー協会の副会長を務めた。『三菱ダイヤモンド・サッカー』という番組は、篠島が東京12チャンネルの番組審議委員をしていた関係で出したアイデアが元になっており、事実上の生みの親といわれる。番組の解説者に、大学の後輩にあたる岡野俊一郎を起用したのも彼の提案だった。
1975年2月11日、東京都港区の東京都済生会中央病院で、糖尿病性の急性心不全のため亡くなった。墓所は東京都目黒区の東光寺にある。1969年に藍綬褒章、1975年に勲一等瑞宝章を受け、2006年には日本サッカー殿堂に掲額された。学生時代に後の妻となる女性へ宛てて書いた恋文をもとに、その生涯をまとめた『君に書かずにはいられない』(中丸美繪著)が出版されている。長男の篠島義明は元通商産業省生活産業局長である。
同じ年に亡くなった人物
- スティーブ・プリフォンテーン (1975年没)
- Mina Witkojc (1975年没)
- ラリー・ファイン (1975年没)
- アンジェイ・モストフスキ (1975年没)
- ムジブル・ラフマン (1975年没)