伝記
フィロメナは、かつてカトリック教会で崇敬されていた殉教者とされる人物である。4世紀に殉教した若いギリシャの地方総督の娘だったとする伝承があるが、その生涯について確実な同時代の記録は確認されていない。一方、スペイン語圏の記述では、202年ごろにローマ皇帝のもとで殉教した処女とされており、生きた時代の説明は一定しない。彼女をめぐる生涯、実在、崇敬についての論争は「フィロメナ問題」と呼ばれる。名はギリシャ語で「歌を愛する者」の意とされ、彼女はキリスト教史の中でも特に人気があり、かつ論争の多い聖人の一人とされる。
崇敬の出発点は、1802年にローマのプリスキラのカタコンベで若い女性の遺骨が見つかったことにある。同年5月25日、発掘中に3枚の素焼きの板で封じられた墓室が見つかり、そこには錨、三本の矢、棕櫚の葉、花といった、殉教と純潔を思わせるとされる記号が描かれていた。板の銘文は「ルメナ、パクス・テ、クム・フィ」と並んでいたが、中央の行から読む古い習慣にしたがえば「パクス・テクム・フィルメナ」、すなわち「フィロメナよ、あなたに平安があるように」となった。墓を開くと小さな骨の骸骨が現れ、矢に貫かれた跡があったといい、専門家は12、13歳の少女のものと判断した。頭の近くには割れた壺があり、乾いた血とみなされたが、香油の残りだとする説もある。遺骨は5つの包みに分けて黒檀の箱に収められ、1805年8月10日にローマの教会へ渡され、その後ムニャーノ・デル・カルディナーレへ移され、そこに聖堂が置かれて信仰が定着した。
生涯と殉教の詳細は、ナポリの修道女の幻視をもとに広まったものである。それによれば、フィロメナは小国の王の娘で、両親は医師プブリウスの勧めで洗礼を受けたのち彼女を授かった。皇帝ディオクレティアヌスが戦いを挑むと、父は和平を求めてローマへ赴き、娘も同行した。皇帝は、娘を妻に差し出せば保護を与えようと持ちかけたが、フィロメナは拒んで投獄された。槍で突かれ、矢で射られ、鞭で打たれ、水に沈められたが、天使の助けで死を免れたという。最後にはキリスト教徒が海の砂ほど増えると預言し、首を刎ねられた。落とされた首は微笑み、後光が取り巻いていたと語られる。
信仰はイタリアを中心に19世紀前半から広まり、ローマのカタコンベ発掘と殉教者崇敬の再評価という流れの中で受け入れられた。ポリーヌ・ジャリコーは若いころ心臓の病をフィロメナの取り次ぎで癒され、その感謝から生けるロザリオの会、信仰宣布の会、聖なる幼少の会という三つのカトリックの団体を創設した。ジャン=マリー・ヴィアンネ神父も、ほかの人が自分に帰した特別な治癒をフィロメナによるものとした。1837年以降は一部の地域で祝日が認められ、1920年のローマ典礼書にも8月11日の記載があった。
ところが墓碑銘と遺骨の対応には異論があり、当時の埋葬では碑文や装飾が特定の遺体と厳密に結びつくとは限らないとして、遺骨を実在の殉教者フィロメナ本人と断定できないとする見解が出された。殉教録も同時代の史料もなく、歴史学では実在を確かめられないとされる。1961年2月14日、ローマ教皇庁はフィロメナの名をすべての典礼暦から外すよう命じ、1962年版の典礼書にも彼女の名はない。それでも19世紀に崇敬が広く受け入れられた事実自体は、近代カトリック史の信心の展開として位置づけられている。
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