伝記
サラゴサのヴィセンテは、304年に没した初期キリスト教の殉教者で、カトリック教会、聖公会、正教会で聖人とされる人物である。ウエスカで生まれてサラゴサで生き、ディオクレティアヌス帝時代のキリスト教徒迫害で殉教したと伝えられる。このためウエスカのヴィセンテとも呼ばれる。日本聖公会では殉教者執事ビンセント、日本正教会ではイスパニアの聖ビケンティと表記される。スペイン語ではビセンテと呼ばれ、ワイン醸造者や酢醸造者の守護聖人でもある。
フランス語圏の記述によれば、ヴィセンテは司教ヴァレリウスの時代(290〜315年)のスペインの助祭で、バレンシアで殉教したとされる。その生涯は多くの文献から知られ、うち6点は西暦1000年より前のものである。最も古い部分は、聖アウグスティヌスの4篇の説教と、詩人プルデンティウスの詩集『ペリステファノン』にあたる。聖パウリヌスも詩の中で簡潔に触れている。アウグスティヌスの説教は伝記ではなく教えを説く内容で、ヴィセンテという名が「勝利者」を意味することを足がかりに、拷問の中でも火の中でも海に沈められても勝ち続けた姿を語っている。アウグスティヌスは、凶暴な裁判官と残酷な死刑執行人、そして不屈の殉教者の姿を、朗読された受難の物語の中に見ると語った。説教はまた、ローマ帝国の及ぶ限りどの地方でもその殉教が祝われていると述べ、名声の大きさを示す。その背後には、いまは失われた作者不詳の受難記があり、祝日の典礼で読まれたものらしいとされる。
プルデンティウスの詩の第5賛歌によれば、ヴィセンテは裁判官ダキアヌスの前で偶像を拒み、鉄の爪による責め苦を受けた。聖書の引き渡しを拒むと、焼き網の上で焼かれた。続いて、割れた陶片を敷いた牢に、脚を木の器具で開かれたまま投げ込まれた。すると超自然の光が牢を照らし、天使たちが慰めに訪れ、これを見た牢番は裁判官に報告したうえで改宗したという。魂は昇天し、遺体は野獣に与えられたが、一羽のカラスが守った。最後に遺体はバレンシアの浜にさらされ、兵士エウモルフィウスが、ダキアヌスの命により首に石臼を結びつけて海に沈めた。しかし遺体は浮かんで岸に流れ着き、そこで最後の安息を得たとされる。近代の研究者は、弁論の応酬や遺体の海への投棄といった要素を、殉教者の受難記に共通する文学的な型とみる。判事ダキアヌスと兵士エウモルフィウスの名が見えるのは、プルデンティウスにおいて独特である。ヴィセンテの受難記が広く知られたことで、ダキアヌスはスペインでもガリアでも迫害者の典型のように見られるようになった。
墓がバレンシアにあったことから、同地はヴィセンテ信仰の中心となった。サンティアゴ・デ・コンポステーラへ向かう巡礼路にあたるオビエドや、ピレネー山脈を越えたナルボンヌでも信仰は盛んになった。西ゴート王国の王レカレド1世は、聖ヴィセンテに捧げた聖堂をコルドバに建てたが、この聖堂は711年にムーア人に占領された後、徹底的に破壊され、調度品はメスキータへ運ばれた。12世紀頃にはリスボン大聖堂にヴィセンテの聖遺物がもたらされ、以後リスボンの守護聖人となっている。関連する名所には、サン・ヴィセンテ・デ・フォーラ修道院やサン・ヴィセンテ岬、サン・ヴィセンテの祭壇画などがある。祝日はカトリックと聖公会で1月22日、正教会で11月11日である。聖遺物には彼の長衣も含まれ、その広がりが信仰の大きさを物語るとされる。
同じ年に亡くなった人物
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- シラクサのルチア (304年没)
- Saint Domnius (304年)
- 大アナスタシア (304年)
- Cucuphas (304年)
同じ地域に関係する人物
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- ジャコモ・ラウリ=ヴォルピ (1979年没)
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