伝記
ハイメ1世は、一二〇八年二月二日に生まれ、一二七六年七月二十七日に没したアラゴン王である。在位は一二一三年から一二七六年で、バルセロナ伯を兼ね、一二一九年からはモンペリエ領主でもあった。バレアレス諸島とバレンシア王国を征服したことから「征服王」と呼ばれる。カタルーニャ語ではジャウマ1世という。
父はアラゴン王ペドロ2世、母はモンペリエ領主の相続人マリアで、二人のただ一人の子であった。幼年期は南フランスをめぐる争いの渦中にあった。父はカタリ派とアルビジョア十字軍を率いるシモン・ド・モンフォールとの戦争に巻き込まれ、十字軍を懐柔しようとして、一二一一年にハイメを、モンフォールの娘の婚約者という事実上の人質として差し出した。ハイメはカルカソンヌで教育を受けるはずであったが、一二一三年九月十二日、父はミュレの戦いで戦死した。母もすでに亡くなっており、遺言でハイメの保護を教皇インノケンティウス3世に託していた。アラゴンとカタルーニャの遺臣たちも身柄の引き渡しを教皇に訴え、教皇の勧告で一二一四年四月にハイメはアラゴンへ戻った。
アラゴンのモンソンに送られ、次いでテンプル騎士団のもとで帝王学や軍事、乗馬を学んで育った。この間、王国は大叔父のルサリョー伯らが摂政を務めたが混乱が続き、一二一七年六月に騎士団と貴族が幼い王をサラゴサへ連れて行った。翌年には貴族が二派に分かれて内乱となり、王は言われるまま戦場へ出るしかなかった。一二二一年二月にはカスティーリャ王アルフォンソ8世の娘レオノールと結婚したが、一二二四年にはサラゴサで監禁され、解放されると、監禁を仕組んだ貴族たちから賠償金まで求められた。一二二五年にペニスコラを包囲したが大貴族の協力を得られず断念し、一二二六年に監禁を実行したペドロ・アオネースを殺害すると、反乱が広がった。反乱貴族と和睦して内乱を終えたのは一二二七年である。王妃とは一二二五年ごろ別れ、一二二九年に教皇グレゴリウス9世が婚姻の無効を宣言し、一二三五年に教皇の仲介でハンガリー王アンドラーシュ2世の娘ビオランテと再婚した。
成人した王は、一二二八年にウルジェイ伯領の相続争いを女相続人の側に立って収め、同年十二月、タラゴナでバルセロナの富裕な市民から、地中海のマヨルカ島の攻略を持ちかけられた。これは、貿易路を海賊に脅かされたカタルーニャの商人の要請に基づく軍事行動で、王にとっても、貴族をまとめる口実と軍事的名声を得る機会であった。バルセロナのコルテスで支持を得て、教皇庁から十字軍の資格を与えられ、一二二九年九月五日にサロウの港を出発した。十二月三十一日に首都パルマ・デ・マヨルカを総攻撃で落とし、ムワッヒド朝の代官アブー・ヤフヤーを捕らえて、約三か月で島を占領した。その後もマヨルカ島へ渡り、一二三一年にメノルカ島が降伏し、一二三二年に島の平定が完了、一二三五年にはイビサ島も占領し、バレアレス諸島は六年で平定された。
続いて一二三二年から、内部分裂していたバレンシア王国の征服を進めた。一二三三年からは王自ら軍を率い、ボリアナを降伏させ、テンプル騎士団や聖ヨハネ騎士団などの軍も加えて北部を制圧した。一二三八年にはプッチの城に留まって撤退を求める貴族らに逆らい、バレンシア北部の割譲を条件とする和睦の申し出も拒んだ。包囲中には矢が額に当たって重傷を負ったが復帰し、同年九月二十八日にバレンシアを降伏させた。バレンシア住民の退去は保障された。この二つの征服によって王は征服王と称えられ。
同じ年に亡くなった人物
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- Coppo di Marcovaldo (1276年)
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- ハドリアヌス5世 (ローマ教皇) (1276年没)
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