HISTORICAL PERSON · 1999年没

ライサ・ゴルバチョワ

ソ連最後の指導者ゴルバチョフの夫人。公的行事や外国訪問で夫に同行してソ連のイメージ改善に貢献し、文化遺産保存や小児白血病治療の資金集めにも尽力した。

生涯
1999年没
死亡地
ドイツ連邦共和国(ノルトライン=ヴェストファーレン州 / ミュンスター)
出生地
ロシア連邦(ルプツォフスク)
出典
世界地図
ドイツ連邦共和国(ノルトライン=ヴェストファーレン州)

伝記

ライサ・ゴルバチョワは、1932年1月5日に西シベリアのルブツォフスク(現在のアルタイ地方)で生まれ、1999年9月20日に亡くなった、ソビエト連邦最後の指導者ミハイル・ゴルバチョフの夫人である。旧姓はチタレンコ。ソ連のファーストレディとして、公的な行事や外国訪問に積極的に夫に随行し、ソ連のイメージの改善に貢献した。社会運動家としても、ロシアの文化遺産の保存や、新しい才能を見いだす教育、小児白血病の治療プログラムのための資金集めに力を尽くした。

父マクシム・チタレンコはウクライナ系の鉄道技師で、母アレクサンドラはシベリア出身である。ライサは3人の子の第1子として生まれ、少女時代をウラルで過ごした。高等学校では成績優秀で、1949年に金メダルを授与された。1950年にモスクワ大学の哲学部に入り、在学中に同大学の法学部にいたミハイル・ゴルバチョフと出会って、1953年に学生結婚した。大学卒業後は大学院に進んだが、ミハイルが郷里のスタヴロポリ地方でコムソモールの活動に就くことになり、これに従って移った。スタヴロポリでの生活は23年間に及び、1957年には一人娘のイリーナが生まれた。

スタヴロポリでは学校で教えるかたわら、社会学の研究に打ち込んだ。1962年に『集団農場農民の日常生活における新しい特性の出現』と題した論文を書き上げ、コルホーズでの体験的な参加や農民へのインタビュー、アンケート、古老からの聞き取りなどの手法を用いた。この論文は、比較的開発の進んだスタヴロポリ地方でも、賃金や教育、公共サービスで都市部との間に大きな格差があることを実証し、農村における女性の地位の低さにも言及している。哲学の博士候補の学位を得たのは1967年である。この実証的な研究は、地方の実態を重んじる夫の姿勢を育むうえで、大きな影響を与えたとされる。1978年にミハイルが共産党中央委員会の農業担当書記になると、夫妻はモスクワへ移り、ライサはモスクワ大学で教壇に立った。

1985年にミハイルが党書記長に選ばれると、ライサはソ連文化基金の副議長であった。それまでの指導者の夫人が表立った活動を控えがちだったのに対し、知的で洗練された振る舞いにより、国内外のメディアにファーストレディとして取り上げられた。ロナルド・レーガンに「悪の帝国」と見られたソ連のイメージを、人間らしさを加えて改善することにも貢献した。一方で国内には、家庭を守る主婦の枠を越えた彼女を「女帝」と中傷する向きもあった。1989年には小児白血病の治療のために10万ドルを寄付し、その資金で病院の設備や医師の研修が行われた。1991年8月のクーデターではクリミア半島の大統領別荘に家族とともに監禁され、大きな衝撃を受けて、精神的な傷を負った。

1997年に、ロシアにおける女性の政治参加を啓発するため、ライサ・マクシーモヴナ・クラブを設立した。1999年に急性白血病を発症し、ドイツのミュンスター大学病院で治療を受けたが、同年9月20日に67歳で亡くなった。告別式には首相だったウラジーミル・プーチンらが参列し、遺体はノヴォデヴィチ女子修道院の墓地に埋葬された。妻の死を深く嘆く夫の姿は、ロシア国民の同情を集めた。死後には、小児癌の治療法の発見や病気の子どもと家族の支援を目的に、ライサ・ゴルバチョフ基金が設立された。

同じ年に亡くなった人物

同じ地域に関係する人物