伝記
フョードル1世は1557年、モスクワでイヴァン4世の三男として生まれた。母はザハーリン家出身のアナスタシア・ロマノヴナである。母は彼が3歳の頃までに世を去り、フョードルは距離のある父の陰で育った。生まれつき病弱で気質は控えめであり、軽度の知的障害があったともいわれる。他の兄姉は幼いうちに亡くなり、家族として頼れたのは兄イヴァンだけだった。洗礼はチュードフ修道院で受け、代父は府主教マカーリーであった。フョードルは並外れて信心深く、祈りや瞑想に何時間も費やし、教会を訪れて鐘を鳴らさせることを好んだため、後世には鐘つきのフョードルとも呼ばれる。
父はフョードルを、1572年から1573年、および1574年から1576年にかけて、ポーランド王位の候補にも挙げた。1577年には、ボリス・ゴドゥノフらの貴族や教育係とともにノヴゴロドに残されている。1580年、当時イヴァン4世の信頼を得ていたタタール系の貴族ボリス・ゴドゥノフの妹イリナ・ゴドゥノヴァを妻に迎えた。翌1581年、兄イヴァンが父に誤って殺害されると、フョードルは思いがけず後継者の地位につくことになった。宣教師ポッセヴィーノは1586年の著書で、兄は父が怒りに駆られて殺したと述べている。
1584年にイヴァン4世が死ぬと、フョードル1世として即位した。イヴァン4世は遺言で5人の重臣を摂政に指名しており、この摂政団は熾烈な権力闘争を繰り広げた。皇帝の義兄ボリスは、1588年までに大貴族やヴァシーリー・シュイスキーらを失脚させ、政治の全権を握った。外国使節は宮廷に伺候したあと必ずボリスの居所を訪れたといい、ボリスは事実上のツァーリとして権勢を振るった。一方のフョードルは、日々を皇妃らとの娯楽や祈りにあて、政治には関わらなかった。ボリスは彼をポーランドの国王選挙に出馬させようとしたこともあったが、この計画はうまくいかなかった。1585年頃にはドン川の支流ヴォロネジ川右岸に木造の要塞を建設するよう命じ、クリミア軍やノガイ・オルダ軍に対する防衛を強めている。
フョードルとイリナの間に子は恵まれず、唯一の娘も2歳で夭折した。後継候補には25歳年下の異母弟ドミトリーが挙がったが、教会法は3度以上の結婚を私通とみなすため、7度目の結婚で生まれた彼は非嫡出子扱いで、正式な後継者とはされなかった。ドミトリーは1591年、8歳の時にウグリチの自邸で喉を切られて死んでいるのが発見された。ボリスの摂政政府は事故死と発表したが、帝位を狙うボリスによる暗殺が噂された。
フョードル1世は1598年の年明けに、後継者たる男子のないまま崩御した。これによりリューリクの直系子孫は途絶え、リューリク朝は断絶した。後継者の指名もなかったため、全国会議がボリスをツァーリに選出した。その後ロシアは動乱時代に入り、短命な統治者が次々と現れ、1610年以降にはツァーリが不在という事態にも陥った。1613年、母アナスタシアの家系であるロマノフ家出身で従甥にあたるミハイル・ロマノフがツァーリとなり、動乱時代は終わった。同時代人には、鐘を鳴らしたり教会に通ったりして時間の大半を費やす極めて単純な人物と酷評された一方、正教会では祈りに熱心だった姿勢が評価され、至福者として列聖されて聖人となり、記憶日は1月20日(1月7日)とされる。
同じ年に亡くなった人物
- セオドア・ド・ブライ (1598年)
- エメリー・モリノー (1598年)
- ベニート・アリアス・モンターノ (1598年)
- アブラハム・オルテリウス (1598年没)
- Hadim Hasan Pasha (1598年)
同じ地域に関係する人物
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- ヴァシーリー・トロピーニン (1857年没)
- グリゴリー・バクラノフ (2009年没)
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- ヴィタリー・セバスチャノフ (2010年没)