伝記
コンスタンディノス・カラマンリスは、1907年3月8日にギリシャ北部マケドニア地方のセレス近郊で生まれた政治家で、首相と大統領を務めた。生まれた当時、この地はオスマン帝国の領内にあり、1913年にバルカン戦争を経てギリシャに併合されたことで、彼はギリシャ市民となった。父ゲオルギオスは教師で、20世紀初頭のマケドニアをめぐる闘争に加わっていた。マケドニアで少年期を過ごしたのちアテネで法学を修め、セレスに戻って弁護士として働き始めた。やがて保守政党の人民党に入り、1936年、28歳で国会議員に初当選した。この選挙は第二次世界大戦前の最後の国政選挙だった。占領期にはアテネとセレスを行き来し、1944年7月に中東へ渡って亡命政府に合流した。
戦後は急速に頭角を現した。親しい同志ランブロス・エフタクシアスの後押しもあり、1947年に労働大臣として初入閣し、1952年にパパゴスの率いるギリシャ連合の政権で公共事業大臣となった。道路網を整え、アメリカの援助事業を効率よく運営して、アメリカ大使館の称賛を得たという。1955年10月にパパゴスが病没すると、国王パウロス1世は、有力と目されていた重鎮たちを飛び越え、48歳のカラマンリスを首相に指名し、政界を驚かせた。彼はギリシャ連合を改組して民族急進同盟を結成し、女性への完全な参政権の実施を進め、1956年、1958年、1961年の選挙に勝ち続けた。1959年には農工業の生産や社会基盤への投資、観光振興を柱とする5か年計画を発表した。一方、この時期には左翼や労働運動への弾圧が厳しく、1963年にはテッサロニキで議員グリゴリス・ランブラキスが暗殺された。この事件は映画『Z』の題材となった。
1963年7月、国王パウロスとの対立から首相の座を離れた。彼が王妃フリデリキを嫌っていたことが原因だともいわれる。同年の総選挙で民族急進同盟が中央同盟に敗れると党首を辞し、パリで亡命生活に入った。1967年4月に陸軍将校によるクーデターが起きるとパリから軍事政権を激しく非難した。1974年7月に軍事政権が倒れると、友人であるフランスのジスカール・デスタン大統領が専用機を貸し、彼は帰国して首相に就任した。左右の対立を和らげるには中道右派の彼が最善だと誰もが考えていたからである。挙国一致内閣を率い、キプロス紛争で危機に陥ったトルコとの関係の修復と、新しい民主体制の構築に取り組み、内戦以来禁じられていた共産党を合法化した。急進的な民主化は再度のクーデターを招きかねないと恐れ、検閲の廃止や軍人の処分には慎重だった。それでも民主化は進み、クーデターの首謀者たちは反逆罪で裁かれ、死刑判決を受けた将校たちも、のちに終身刑へ減刑された。同年の国民投票で王制が廃止され、ギリシャ共和国が誕生し、翌1975年には新憲法が制定された。
1974年に新民主主義党を設立し、同年と1977年の選挙に勝って首相を務めた。1980年にEEC加盟を決めたのち首相を辞し、大統領に選ばれて、1981年のEC加盟を見届けた。1985年に一度退いたが、1990年にミツォタキス首相のもとで再び大統領に選ばれ、1995年に88歳で政界を引退した。5回の当選と首相在任14年、大統領2期10年を含む60年余りの政治生活だった。1978年にカール大帝賞を受け、1998年に91歳で死去した。思想は彼が設立した保守系シンクタンクの財団に受け継がれ、甥のコスタス・カラマンリスも後に首相を務めた。
同じ年に亡くなった人物
- フリッツ・ブークロー (1998年没)
- レフ・ロフリン (1998年没)
- キャサリン・クックソン (1998年没)
- ゼゼ・モレイラ (1998年没)
- Arto Tiainen (1998年没)
同じ地域に関係する人物
- スピリドン・ルイス (1940年没)
- ペトロス・プロトパパダキス (1922年没)
- エウテュミデス (紀元前500)
- アポロドーロス (紀元前150)
- ゲオルギオス・パパドプロス (1999年没)