伝記
井出多米夫は、1908年11月27日に生まれ、静岡県清水市(現・静岡市)を出身地とするサッカー選手・指導者である。静岡県立静岡中学校(現・静岡県立静岡高等学校)を卒業した後、早稲田大学に進学し、同大学のア式蹴球部に入部した。大学では、のちに指導者としても知られる工藤孝一と同期だった。井出の歩みは、学校と大学で競技に取り組みながら、次第に全国的な舞台へ進んでいく形で始まった。
転機となったのは、1930年5月に開催された第9回極東選手権競技大会である。井出は日本代表に選出され、この大会で1試合に出場した。国際Aマッチでの成績は1試合出場、0得点と記録されている。代表として実際の国際試合に出場したことは、早稲田大学ア式蹴球部での活動を、国内の学生競技にとどまらない経験へと広げる出来事だった。
その後、井出は東京OBクラブの一員として競技を続けた。1933年10月に開催されたア式蹴球全國優勝競技會、現在の第13回天皇杯全日本サッカー選手権大会で、東京OBクラブは優勝し、井出もその一員として全国大会のタイトルを得た。日本代表での出場と全国大会での優勝は、井出が選手として国際舞台と国内最高峰の大会の双方に関わったことを示している。
1942年、井出は地元の清水市に戻り、静岡県立庵原中学校(現・静岡県立清水東高等学校)などでサッカーの指導にあたった。選手として競技する立場から、学校で次の世代を育てる立場へ活動の重心を移したのである。さらに1948年には、同年に創設された清水サッカー協会の初代理事長に就任した。学校での指導と協会の運営を担うことで、井出は個人として試合に出場するだけでなく、清水地域のサッカーを組織的に支える役割を引き受けた。
地域での活動は県全体へも広がり、井出は1960年に静岡県サッカー協会の理事長を務めた。1971年には、9月21日に亡くなった早稲田大学時代の同期・工藤孝一のア式蹴球部葬で、9月23日に葬儀委員長を務めている。井出は1998年8月17日に没した。選手としての代表経験と全国大会優勝を出発点に、学校指導、地域協会、県協会の運営へと役割を広げた経歴は、静岡のサッカーを競技と組織の両面から支えた人物としての歩みを伝えている。
同じ年に亡くなった人物
- リチャード・デニング (1998年没)
- Fred Wacker (1998年没)
- テッド・ヒューズ (1998年没)
- Stig Jarrel (1998年没)
- Sandor Ivady (1998年没)