伝記
テッド・ヒューズは、1930年8月17日にイングランド北部ヨークシャー(ウェスト・ライディング)のミソルムロイドで生まれ、1998年10月28日にロンドンで没した詩人、児童文学者である。本名はエドワード・ジェームズ・ヒューズで、1984年から死去するまでイギリスの桂冠詩人を務めた。10歳年上の兄ジェラルドと、2歳年上の姉オルウィンがいた。父は大工で、第一次世界大戦ではランカシャー・フュージリア連隊に加わってイーペルで戦い、ダーダネルス作戦から生きて帰った連隊の17人の一人だったという。この父が語る戦場の話は、幼いヒューズの想像力を満たした。ヒューズ自身は、最初の6年がすべてを形づくったと語っている。
7歳のとき一家は南ヨークシャーのメクスバラに移り、両親はたばこ屋と新聞販売を営んだ。少年は狩りや釣り、水泳を好み、動物に強く引かれた。猟場番人をしていた兄に付いて回り、谷あいの農場や荒れ地の厳しい現実に囲まれて育った。地元の中等学校では何人もの教師に詩作を励まされ、ホプキンズやエリオットを教わった。1946年には学校誌に詩が載り、16歳のころには詩人になることしか考えなくなっていた。ケンブリッジ大学ペンブルック・カレッジの奨学金を得たが、先に兵役を選び、1949年から2年間、空軍の無線整備員として東ヨークシャーの人里離れた基地で過ごした。この間はシェイクスピアを繰り返し読み、イェイツの詩を多く暗記したという。
1951年にペンブルック・カレッジに進み、英文学のほか人類学や考古学を学んだ。初めて詩を発表したのもこの時期である。仲間内のパーティーで、アメリカからの留学生シルヴィア・プラスと出会い、わずか4か月後の1956年6月16日に結婚した。一年後に夫妻はアメリカのマサチューセッツ州西部へ移り、それぞれアマースト大学とスミス大学で働いた。1959年10月にロンドンへ戻ってデヴォンに移り、二人の子もいたが、1962年秋には不仲が修復しがたくなっていた。1963年、シルヴィアは二人の子を残して自殺した。
妻の死後、ヒューズは妻の文学作品の管理責任者となり、1966年にその詩集『エアリアル』を含む原稿を出版した。妻の日記の最後の部分が失われていると彼は述べたが、意図的に破棄されたのか本当に失われたのかは不明である。のちにシルヴィアの評価が高まるにつれ、不幸な結婚生活が議論となり、彼女を擁護するフェミニストらからヒューズは「殺人犯」として攻撃された。彼は公の場で発言することを一切せず、最後の作品『誕生日の手紙』(1998年)で二人の関係を暗示したのみである。以前から不倫関係にあったアッシア・ウェーヴィルとはデヴォンの自宅で暮らし続けたが、1969年、アッシアは4歳の娘とともにガスで自殺した。ヒューズは翌1970年、同じく不倫関係にあった看護師のキャロル・オーチャードと再婚し、生涯を添い遂げた。作品には詩集『クロウ』があり、児童向けには『アイアン・マン 鉄の巨人』などを書いた。2008年にはタイムズ紙が戦後の英国作家の第4位に挙げた。ガンで亡くなると、ノース・タウトン教会での葬儀ではシェイマス・ヒーニーが弔辞を読み、遺灰はダートムーアに撒かれた。
同じ年に亡くなった人物
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- バリー・ゴールドウォーター (1998年没)
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