伝記
ジャン・ボダンは、16世紀フランスの法学者、政治思想家、経済学者であり、弁護士でもあった。ボーダンとも表記される。1530年頃に生まれ、1596年に没した。ユグノー戦争の時代に、近代的な主権論を打ち立てた人物として知られる一方、魔女狩りを強く推奨した人物としても知られる。
1529年6月から1530年6月の間に、フランス西部のアンジェで、7人きょうだいの4番目として生まれた。父ギヨーム・ボダンは商人で仕立屋の親方だった。最初の教育はアンジェのカルメル会士から受け、修道誓願を立てて、1545年にパリのカルメル会修道院に修練士として入り、哲学を学んだ。近くのコレージュでヘブライ語を、またギリシア語も学んだとされる。1547年から1548年にかけて異端の嫌疑による訴訟に関わったようだが、同名の別人の記録の可能性もある。1549年頃にアンジェの司教の尽力で修道誓願を免除され、ナントを経てトゥールーズに落ち着き、法学を学んだのち、ローマ法を教えた。この地で、ユダヤ人らを通じてカバラや新プラトン主義にも触れたという。
1566年に最初の大作『歴史を容易に知るための方法』を著し、好評で1572年に増補第2版が出た。1568年には物価上昇と貨幣をめぐる論争に、マレストロワへの反論を書いて加わり、貨幣数量説を唱えた。これは重商主義の先駆けとされ、中世以来二つに分かれていた商品と貨幣の価値を一元的な体系に位置づけた点で、中世から近代への転換点とも評される。1569年には「宗教を理由に」パリの牢獄に投じられ、1570年8月まで拘束された。その年、シャルル9世からノルマンディーの森林改革の委員に任じられ、横領した者に対し数百件の訴訟を起こすなど熱心に務めた。1571年には、王の弟アランソン公、のちのアンジュー公に仕える顧問官となり、公が亡くなる1584年まで務めた。公は宗教的寛容を主張する不満派と結びついており、ユグノーへの共感を疑われたボダンは、1572年のサン・バルテルミの虐殺をかろうじて逃れた。1573年にはメスでポーランドの使節を迎える代表団に加わり、演説文を書いた。1576年にはラオンで、裕福な寡婦フランソワーズ・トルイヤールと結婚した。
同年に著した『国家論六編』では、サン・バルテルミの虐殺の後の宗教戦争に対する反省から、国家を、家族の間の共通の事柄について主権的権力を伴う正しい統治と定義した。家族は家父長のもとに治められ、家族相互の武力抗争に勝った者が主権者となり、従う者が国民、負けた者が奴隷になるという図式を示した。家族でも国家でも主権者はただ一人でなければならないとし、これに反する説は暴君の悪政にも劣る無秩序を招くと断じ、暴君放伐論を意識した。伝統的な身分制社会で国王と人民の間にあった中間権力を排して、支配者と被支配者の二者関係で国家を定義した点で、近代的な主権国家を指向するものと評価される。宗教よりも世俗の秩序を優先し、宗教上の寛容で内戦を終わらせる「ポリティーク」の考えも表明した。1580年刊行の『悪魔憑き』は、長く魔女狩りの手引きとして用いられた。1596年、ペストで亡くなった。
同じ年に亡くなった人物
- ヤコポ・ツッキ (1596年)
- ジョージ・ピール (1596年)
- アンナ (ポーランド女王) (1596年没)
- ゲオルク1世 (ヘッセン=ダルムシュタット方伯) (1596年没)
- フランシス・ドレーク (1596年没)
同じ地域に関係する人物
- ハンス・ブラウン (1918年没)
- エレオノール・ド・ロワイエ (1564年没)
- ロベール1世 (西フランク王) (923年没)
- シアグリウス (487年没)
- カールマン (フランク王) (771年没)