伝記
司馬倫は、西晋の皇族で、八王の乱の八王の一人である。一時的に皇帝に即位したが、正史『晋書』では皇帝の伝記である本紀に伝が立てられていない。字は子彝で、司馬懿の第9子(末子)にあたり、母は柏夫人である。司馬懿の晩年の寵愛を受けて生まれた。249年に安楽亭侯に封じられ、264年に東安子爵に改封されて諫議大夫となり、甥の武帝司馬炎が西晋を建てると、265年12月に琅邪王となった。この間、散騎将の劉緝に職人を買収させて皇帝の革衣を盗もうとし、発覚して同罪とされたが、爵位の高い宗族であることから免れた。277年に趙王に改封され、鄴城の守備を任された。
290年に武帝が崩じて恵帝が継ぐと、291年に関中の守備を命じられた。しかし刑賞が不公平で氐族・羌族の反乱を招き、側近の孫秀を信任しすぎたため、討伐を共にした雍州刺史の解系と作戦で対立した。朝廷は解系を支持して司馬倫を洛陽に呼び戻したが、のちに司馬倫は解系を讒言して免官に追い込んだ。帰還後は権勢のあった賈謐ら賈氏一派に取り入り、皇后賈南風にも信任された。録尚書事などの地位を求めたが、張華と裴頠に反対されて、二人を強く憎んだ。
299年12月、賈南風は皇太子司馬遹を廃して庶民とし、翌300年1月に幽閉した。旧臣の司馬雅らは賈南風の廃位を企て、孫秀を通じて司馬倫に協力を求め、司馬倫も賛同した。ところが孫秀は、太子が復位すれば、賈后と結んでいた司馬倫を恨まぬまでも感謝はせず、かえって過失を口実に誅殺されるおそれがあるとして、決起を遅らせ、賈后が太子を害するのを待つよう勧め、司馬倫はこれに従った。孫秀は計画を賈南風に漏らし、司馬倫も賈謐らに太子を急ぎ除くよう進言した結果、司馬遹は殺害された。4月3日、司馬倫は孫秀、閭和、梁王司馬肜、斉王司馬冏らと政変を決行し、詔を偽造して近衛軍を握り、賈謐を殺し、賈南風を庶民に落として幽閉した。反対した尚書郎の師景は見せしめに殺された。賈氏一族に加え、張華・裴頠・解系らも三族まで殺された。9日には賈南風に毒酒を飲ませて自害させた。
司馬倫は相国などとなって権力を握り、名士を登用して人望を得ようとしたが、才能に乏しく、政治を担ったのは中書令の孫秀で、衆望も孫秀に集まった。淮南王司馬允が不満から兵を挙げると、司馬倫は連敗して千人余りの死者を出したが、司馬允は伏胤の裏切りで殺されて乱は鎮圧された。司馬倫は司馬允の子を殺し、連座で数千人を処刑し、潘岳や石崇らも一族皆殺しにした。さらに孫秀を通じて九錫を受け、兵を増強し、宣帝の神語と称する宣言を出させて準備を整え、301年1月、恵帝に禅譲の詔を作らせて太極殿で即位し、建始と改元した。恵帝は太上皇として金墉城に実質的に監禁され、皇太孫司馬臧は降格のうえ1週間後に殺された。
即位後は官爵を乱発し、貂蝉の冠が朝廷に溢れて、人々は貂が足りず犬の尾が続くと噂した。賞賜が巨額になって国庫が不足し、印綬が足りず文字のない板が配られ、官吏はむしろ賞を恥じ、百姓も司馬倫が天寿を全うしないと確信したという。孫秀の許可なしには何も行われず、詔は孫秀が書き換え、朝の勅命が夜に変わることが3、4度に及んだ。そのころ斉王司馬冏、成都王司馬穎、河間王司馬顒は強兵を持ち、司馬倫と孫秀は監視役を付けつつ懐柔を図ったが、司馬冏は監視役の管襲を捕らえて殺し、豫州刺史の何勗らと共に司馬倫打倒の兵を挙げた。
同じ年に亡くなった人物
- ルティリウス・トーラス・アエミリアヌス・パラディウス (301年(推定))
- Rhipsime (301年没)
- ユリウス・オブセクエンス (301年(推定))
- Claudius Mamertinus (301年(推定))
- 無著 (301年(推定))
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