伝記
ムラト3世は、オスマン帝国の第12代皇帝で、在位は1574年12月から1595年1月に没するまでである。1546年7月4日、マニサで、のちの皇帝セリム2世と妃ヌール・バーヌの子として生まれ、祖父はスレイマン1世であった。アラビア語とペルシア語を学ぶなど十分な教育を受け、1557年の割礼の儀式の後にアクシェヒルの知事となり、のちにマニサを任地としてサルハンの知事も務めた。マニサでは歴史家で学者のホジャ・サデッディンに学び、学識と信仰の篤い、父に深く愛された王子と伝えられる。
1574年、父の突然の死の知らせをマニサで受けた。5人の弟はみな幼く、まだ太守に任命されておらず、ムラトは実質的に唯一の継承者と見なされていた。大宰相ソコルルは、マルマラ海岸に迎えの船を用意するとしたが、駆けつけても船は来ず、やむなく自ら船を手配して、ひどい嵐に悩まされながらトプカプ宮殿にたどり着いた。即位すると、5人の弟を処刑させたともされる。祖父の代の大宰相ソコルル・メフメト・パシャや、母と、のちには寵妃サフィエ・スルタンの補佐を受け、宰相たちが政務をとる体制が続いたが、ハレムの影響力は、ソコルルの政治的な影響力をそぐことも多かったとされる。
対外政策では、1578年から1590年までの12年間、イランのサファヴィー朝と戦った。ソコルルは開戦に否定的だったが、主戦派におされて戦争が始まった。サファヴィー朝ではタフマースブ1世の死後に宮廷が乱れ、貴族の派閥争いも起きており、その隙をついたのである。オスマン側は早くイラン西部を獲得し、1583年にたいまつの戦いで勝利し、1585年にタブリーズを、1588年にカラバフを攻略して、1590年の和平でコーカサスの支配権を認めさせた。だが後にアッバース1世のもとでサファヴィー朝が勢いを取り戻し、1603年にタブリーズを奪還され、1607年までにオスマン帝国はこのとき獲得した領土をすべて失った。戦争中の1579年にはソコルルが暗殺され、帝国は軍事国家から官僚国家へ移っていくことになった。西でも1591年にボスニア州の知事がハンガリー王領に侵攻したのをきっかけに、1593年から長期トルコ戦争が始まり、ジュールを占領するなど当初は戦果を挙げたが、シサクの戦いで敗れ、1595年にエステルゴム要塞を失った。
財政面では、1580年代に赤字が表面化し、1581年に初めて年間収支が赤字になった。遠征や新技術の導入、大量の兵士の雇用が財政を圧迫し、新大陸からの銀の流入がインフレーションを引き起こした。1589年に軍の給料を銀の含有量を減らした銀貨で払うと、常備騎兵の不満が高まり、イスタンブールで暴動が起きて大宰相が罷免された。政府は人頭税を上げ、徴税請負制を拡大して税収を確保したが、これがのちのジェラーリーの反乱の背景となった。ソコルルの死後は強大な大宰相を望まず、在位中に10回以上、大宰相が交代した。皇帝自身はハレムに入り浸り、トプカプ宮殿の第2の庭に自分のハレムをつくらせて、官職の売買や収賄が公然となったともいわれる。晩年にはイングランド女王エリザベス1世の使節が来訪した。1595年1月、48歳で亡くなり、死因は膀胱か腎臓の病気とされる。死去時には103人の子がおり、跡をメフメト3世が継いだ。
同じ年に亡くなった人物
- ルドヴィーコ・ゴンザーガ=ネヴェルス (1595年没)
- エルンスト・フォン・エスターライヒ (1553-1595) (1595年没)
- イェレミアス2世 (コンスタンディヌーポリ総主教) (1595年没)
- アントニオ・デ・ポルトゥガル (1595年没)
- Hugues Loubenx de Verdalle (1595年)
同じ地域に関係する人物
- キラツァ・マリア (1390年没)
- オフリドのクリメント (916年没)
- サラーミシュ (1291年没)
- Semiha Berksoy (2004年没)
- アレクサンドロス (東ローマ皇帝) (913年没)