伝記
ボフミル・フラバルは、1914年3月28日、当時オーストリア=ハンガリー帝国領だったモラヴィア地方のブルノ郊外ジデニツェに生まれたチェコの小説家である。未婚の母マリエのもとに生まれ、3歳ごろまでは主にブルノの祖父母のもとで暮らした。母は醸造所で簿記の助手として働いており、のちに同僚のフランチシェク・フラバルと結婚した。この義父はフラバルの有名な小説の登場人物にもなっている。一家は1919年にボヘミア地方のヌィムブルクに移り、義父はそこでビール醸造所の支配人となった。母は素人芝居に熱心で、フラバルは母が注目の的になることに引け目を感じたとも回想している。
叔父のボフスラフ・キリアーンは弁護士で、ジャーナリスト、文化雑誌の発行者でもあった。学校では勉強に集中できず、叔父の補習を受けても身が入らなかった。ブルノのギムナジウムでは落第し、のちにヌィムブルクの実業系の学校に通った。1935年にプラハのカレル大学法学部に入ったが、1939年にチェコの大学が閉鎖されたため、卒業して学位を得たのは第二次世界大戦が終わった後の1946年である。戦時中はヌィムブルク近郊の駅で鉄道の作業員・操車係として働いたといい、この経験は代表作の一つ『厳重に監視された列車』に生かされた。戦後は保険の外交員、行商の販売員、クラドノの製鉄所の労働者、古紙工場の梱包係、劇場の舞台係と、さまざまな職を転々としながら書き続けた。1956年に、30歳のエリシュカ・プレヴォヴァーと結婚し、1965年には、ヌィムブルクに近い土地に別荘を買い、そこで多くの猫を飼った。
最初は詩人として出発し、1948年に抒情詩集を出したが、共産党体制の確立とともに回収された。1950年代の初めには、芸術家イジー・コラーシュの率いる地下の文学グループに加わり、そこにはヨゼフ・シュクヴォレツキーもいた。共産党が掲げた社会主義リアリズムとはまったく異なる作風だったため、スターリン主義化が進む時代には作品の刊行を許されなかった。
1960年代に入り、チェコスロバキアに自由化の兆しが見えると出版の機会が訪れ、1963年に単行本『水底の真珠』が刊行された。執筆に専念することを決め、次々に作品を発表して高く評価され、ミラン・クンデラらとともに新しいチェコ文学の担い手として注目された。『厳重に監視された列車』と『つながれたヒバリ』は、イジー・メンツェル監督によって映画化され、フラバルは共同で脚本に加わっている。しかし1968年のチェコ事件(プラハの春の弾圧)で出版の自由はつぶされ、ソ連を非難したフラバルは、国内での作品の発表を禁じられた。
その後、共産党体制への恭順を示したことで一部の作品の出版は許されたが、検閲のために満足な形では刊行できず、多くの作品が地下出版や、外国の亡命出版社から出された。厳しい検閲は1989年のビロード革命まで続いたが、民主化後はあらためて全作品が出版され、国内で支持されるとともに世界的にも評価された。『あまりにも騒がしい孤独』『剃髪式』『わたしは英国王に給仕した』などがある。1997年2月3日、入院していたプラハの病院で、鳩に餌をやろうとして5階から転落し、亡くなった。
同じ年に亡くなった人物
- ヴィクトール・フランクル (1997年没)
- オルランド・ラモン・アゴスティ (1997年没)
- Eliseo Alvarez (1997年没)
- 杉村春子 (1997年没)
- ブリジット・アンデルセン (1997年没)
同じ地域に関係する人物
- エリシュカ・プシェミスロヴナ (1330年没)
- Vladimir Holan (1980年没)
- アントニーン・シュヴェフラ (1933年没)
- リボール・ペシェク (2022年没)
- マリア・アマーリア・ダズブルゴ (1804年没)