HISTORICAL PERSON · 1997年没

ヴィクトール・フランクル

オーストリアの精神科医・心理学者。強制収容所の体験を描いた『夜と霧』が代表作で、生きる意味を見出させる心理療法「実存分析」を提唱した。

生涯
1997年没
死亡地
オーストリア共和国(ウィーン)
出生地
オーストリア共和国(ウィーン)
出典
世界地図
オーストリア共和国(ウィーン)

伝記

ヴィクトール・エミール・フランクルは、1905年3月26日にウィーンに生まれたオーストリアの精神科医・心理学者である。15歳のころにはジークムント・フロイトと文通を始め、1921年には最初の講演を行い、題は「人生の意味について」であったとされる。そのころ社会主義の青年労働者の組織にも加わった。ウィーン大学で医学を学ぶ学生だった1925年にフロイトと直接会い、アルフレート・アドラーの周囲の知的な集まりにも近づいたが、アドラーと意見が合わず、翌年にはアドラーの個人心理学の協会から除名されたという。

1933年からはウィーンの精神病院で、自殺をはかった女性患者の部門の責任者を務めた。1938年にナチス・ドイツがオーストリアを併合すると、ユダヤ人がドイツ人を治療することは禁じられ、職を解かれた。ナチスが権力を握ったのち、精神病患者に安楽死の措置を行うよう命じられても、命の危険を冒してこの命令に従わなかったと伝えられる。1941年12月に結婚したが、その9か月ほど後に家族とともにテレージエンシュタット強制収容所に収容され、父はここで亡くなった。母と妻は別の収容所に移されて命を落とし、兄弟もホロコーストで失ったとされる。フランクル自身は1944年10月にアウシュビッツへ送られ、その3日後にテュルクハイムに移されて、1945年4月にアメリカ軍に解放された。収容所の非人間的な環境の中でも精神の自由を保ち続けたと言われ、この体験は後の著作や治療の姿勢に深く影響した。

解放後はアウシュビッツでの体験をつづり、日本では1956年に『夜と霧』として出版された。1946年にウィーンの神経科病院に呼ばれ、1971年まで勤務し、1947年にはエレオノール・キャサリン・シュヴィンと再婚した。50年以上にわたって仲のよい夫婦であり、彼女は学問上の協力者でもあったという。1948年には、「無意識の神」を主題として哲学の博士号を取り、1955年にはウィーン大学の神経学の教授となった。ウィーン大学医学部の精神科教授とウィーン市立病院の神経科部長を兼ねたと記す資料もある。

患者が自らの手で生きる意味を見出すのを助けることで精神障害を克服しようとする心理療法を打ち立て、これが「実存分析」、のちにロゴセラピーと呼ばれるようになった。「第三ウィーン学派」とも称される。フランクルによれば、人間には意味を求める意志があり、患者の苦しみは性的な欲求不満や劣等感だけでなく、実存的な空虚、つまり意味の欠如にも根ざしている。そのため、治療者は患者の精神的な次元を無視してはならないと考えた。

1970年にはアメリカのサンディエゴに、世界で初めてのロゴセラピーの研究所が設立された。ハーバード大学など米国の大学でも客員教授として教え、アメリカで世界的に名を知られるようになった。著書は30を超える言語に翻訳され、29の名誉博士号を受け、人類への貢献をたたえるメディクス・マグヌス賞などの顕彰も受けたとされる。講演で各国を訪れ、1984年から1987年にかけてはブラジルの各地にも足を運んだ。同じウィーンの精神医学者オスヴァルト・シュヴァルツは、ロゴセラピーが心理学で果たす役割は、カントの『純粋理性批判』が哲学で果たした役割に等しいと評したという。1997年9月2日に死去した。現在、ロゴセラピーの研究所や協会は30を超える国にある。

同じ年に亡くなった人物

同じ地域に関係する人物