伝記
ウィレム・デ・クーニングは、1904年4月24日にオランダのロッテルダムで生まれ、1997年3月19日に92歳で没した画家である。主にアメリカ合衆国で活動し、ジャクソン・ポロックやマーク・ロスコと並ぶ抽象表現主義の代表的な画家で、激しい筆の動きを特色とした。ポロックと並ぶ「アクション・ペインティング」の作家とされ、ポロックが絵具をしたたらせる「ドリッピング」を用いたのに対し、デ・クーニングは筆でキャンバスに描いた。
両親のレーンデルトとコルネリアは1907年に離婚し、少年はまず父の、のちには母のもとで暮らした。1916年に学校を離れて商業美術の会社に徒弟として入り、1924年まで、ロッテルダムの美術工芸の学校の夜学に通った。この学校はのちにウィレム・デ・クーニング・アカデミーと改称された。オランダ時代には、モンドリアンらの「デ・ステイル」の運動にも接している。1926年、アルゼンチン行きのイギリスの貨物船に密航してアメリカへ渡り、8月15日にバージニア州ニューポート・ニューズに上陸した。大衆雑誌の挿絵画家になるつもりで、アメリカの挿絵画家たちの作品に強く心を動かされたと後に語っている。ニュージャージー州ホーボーケンのオランダ人船員宿泊所に身を寄せ、家の塗装工として働き、1927年にマンハッタンへ移ってからも、大工仕事や塗装、商業美術で生計を立てた。
暇な時間に絵を描き始め、1928年にニューヨーク州ウッドストックの芸術家村に加わった。この前後にマンハッタンのモダニズムの画家たちと知り合い、アルメニア出身のアーシル・ゴーキー、アメリカのスチュアート・デイヴィス、ロシアのジョン・グレアムを、まとめて「三銃士」と呼んだ。中でもゴーキーは親しい友人となり、少なくとも10年間は大きな影響を与えた。1930年代半ばまで商業美術で暮らしを立てていた彼は、1934年に美術家組合へ入り、翌1935年には公共事業促進局の連邦美術計画に雇われて、ポロックやロスコらとともに、公共建築の壁画の下絵を手がけた。壁画の案はいずれも実現しなかったが、うち一つの下絵は、ニューヨーク近代美術館での初のグループ展に出された。1937年にアメリカ国籍がないため計画を離れたが、以後は注文制作や教えることで収入を得て、専業の画家となった。この年、1939年のニューヨーク万国博覧会の薬学館に飾られる壁画の一部を担当し、批評家の関心を集めた。1943年には画家のエレイン・フリードと結婚した。
1940年代頃から人物表現に関心を向け、立つ男や座る男を描いた。この時期の作品は、ゴーキーのシュルレアリスムの影響やピカソの影響を強く受けていたが、年下の画家フランツ・クラインと出会って変わったとされ、黒を基調とした書のような画面にその影響が見える。1948年にはニューヨークのイーガン画廊で初の個展を開き、ノースカロライナのブラック・マウンテン・カレッジでも教えた。1950年代初めに始まった「女」の連作はとくに知られ、感情のおもむくままに筆を走らせたような画面は、抽象にほとんど近づいている。その後は具体的な形を排した抽象的な作品を描く時期もあったが、1960年代後半から再び「女」の主題に取り組んだ。アメリカの市民権は1962年に得た。2011年から翌年にかけてニューヨーク近代美術館で回顧展が開かれ、20世紀を代表する美術家の一人としていっそう知られるようになった。
同じ年に亡くなった人物
- Lars Bergendahl (1997年没)
- ヨーゼフ・ピーパー (1997年没)
- ヘイスティングズ・カムズ・バンダ (1997年没)
- キャシー・アッカー (1997年没)
- ジョン・C・エックルス (1997年没)
同じ地域に関係する人物
- ジョー・マッセリア (1931年没)
- ナタリー・パレ (1981年没)
- ウォルター・キャンプ (1925年没)
- ティナ・ブルックス (1974年没)
- リーゼ・スティーヴンス (2013年没)