伝記
ダイアナは、1961年7月1日に生まれ、1997年8月31日に没したイギリス王室のチャールズ皇太子(現国王チャールズ3世)の前妻である。全名はダイアナ・フランセス、旧姓はスペンサーといい、ウェールズ公妃を称した。1996年の離婚で王室を離れた立場となったため、日本語では「ダイアナ元妃」と呼ばれることが多い。
イングランドのノーフォークにある屋敷パークハウスで、スペンサー伯爵家の嫡男オールトラップ子爵エドワード・ジョン・スペンサーと夫人フランセスの三女として生まれた。三年後には弟チャールズが生まれている。スペンサー家は羊商で財をなし、1603年に男爵位を得て以来続く貴族の家柄である。両親は不仲で、1967年に別居し、離婚申請の審問を経て、親権は父が得た。ダイアナは1970年にノーフォークの寄宿学校へ、1973年にはケント州のウェスト・ヒース学校に入った。教師からは問題児扱いされたが、スポーツやバレエ、ダンスで活躍し、友達も多かったという。小説に熱中して成績は学年で最低レベルまで落ちたものの、学校が力を入れていたボランティアで老夫婦の家を訪ねて話し相手や家事の手伝いをするうち、自分に社会奉仕の適性があると感じたとされる。1975年に祖父が死去して父が第8代スペンサー伯爵となり、ダイアナら三姉妹は「レディ」の称号を得た。
1977年、姉セーラと交際していたチャールズ皇太子と、オルソープ邸の狩猟場で初めて会った。当時16歳のダイアナへの皇太子の印象は、陽気で明るい十代という程度だったという。同年末にスイスの花嫁学校へ入ったが、6週間ほどで帰国し、ロンドンで一人暮らしを始めた。1979年にサンドリンガム邸のパーティーで皇太子に再会して親しくなり、1980年に交際が深まって、1981年2月に19歳で婚約した。同年7月29日にセント・ポール大聖堂で結婚式を挙げた。1982年5月からケンジントン宮殿で暮らし、ウィリアムとヘンリーの二人の王子をもうけた。
しかし、結婚生活や公務をめぐる考え方の違いが深まり、ダイアナは過食症に苦しむようになった。皇太子は1980年代半ば以降、ケンジントン宮殿に戻らず、カミラとの交際を再開した。1992年12月に別居が発表され、1993年には皇太子とカミラの電話の録音が公開された。1995年11月にはBBCのインタビューで、結婚生活は「3人の結婚生活」だったと述べ、自らも元騎兵連隊将校と5年にわたり不倫していたことを認めた。そして、王妃にはならず、「人々の心の王妃」になりたいと語った。1996年8月に離婚が成立し、二人の王子の親権を平等に持ち、ウェールズ公妃の称号は保つが妃殿下の敬称を失う代わりに多額の慰謝料を得た。
離婚後はエイズ問題や地雷除去などの慈善活動に本格的に取り組み、パキスタン人の心臓外科医ハスナット・カーンと、1997年7月からはエジプト人の映画プロデューサー、ドディ・アルファイドと交際した。同年8月31日未明、パリでドディとともに乗った車が事故を起こし、病院で約4時間後に息を引き取った。遺体は王室が引き取り、準国葬にあたる「王室国民葬」が営まれた。国民の哀悼の高まりから、エリザベス2世は特別声明を出し、葬儀中のバッキンガム宮殿には異例の半旗が掲げられた。ファッションの感覚も高く評価され、死後も人気は極めて高い。訪日は三度あり、1986年の最初の訪日は「ダイアナフィーバー」と呼ばれる社会現象を起こした。
同じ年に亡くなった人物
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- 彭真 (1997年没)
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