伝記
ジャン=ベデル・ボカサは、1921年2月22日に生まれ、1996年11月3日に亡くなった中央アフリカの軍人、政治家である。中央アフリカ共和国の大統領を務めたのち、中央アフリカ帝国の皇帝ボカサ1世となり、同国で独裁体制を敷いた。
当時フランスの植民地だった赤道アフリカのロバイ川流域にあるムバカ族の村に生まれた。父は村の長で、ゴム採取会社のもとで村人を働きに出す取りまとめ役をさせられていた。しかし強制労働に従事させられていた村人を会社に無断で解放したために拘束され、ボカサが6歳の1927年に殺された。母もその1週間後に自ら命を絶ったとされ、ボカサは孤児となった。親族の意向でフランス語の教育を受けるため、キリスト教の伝道学校に入った。文法書の著者の名を気に入り、教師たちから「ジャン=ベデル」と呼ばれるようになったとされる。叔父には独立運動を率いたバルテレミー・ボガンダがおり、初代大統領ダヴィド・ダッコは従兄にあたる。
1939年にフランス植民地軍に入り、第二次世界大戦では自由フランス軍の一員として戦った。1944年には連合軍の南仏上陸作戦に加わったとされる。戦後も軍にとどまり、1950年からはインドシナに赴いて通信の専門家を務め、インドシナ戦争で戦功を上げてレジオン・ドヌール勲章と戦功十字章を受けた。アフリカ人としては最高位の大尉まで昇進したという。独立後に大統領となったダッコに呼び戻されて軍の編成を任され、国軍参謀総長となった。
1966年、ダッコ政権が経済政策に失敗し、中華人民共和国から巨額の融資を受けたことを批判する名目でクーデターを起こして権力を握った。16あった省庁のうち14の大臣に自分を任命して独裁をはじめ、1972年には終身大統領を宣言した。同年7月には、泥棒は初犯で片耳を、再犯でもう片方の耳を切り落とすなどの身体刑を発表し、兵を率いて首都の刑務所に乗り込み、囚人を棍棒で打たせたと伝えられる。反共を掲げながら、1976年には台湾と断交し、中華人民共和国を訪れて援助を求めた。同年にリビアでカッザーフィーと会ってイスラーム教に改宗し改名したが、援助が滞るとカトリックに戻り、国名を中央アフリカ帝国と改めて自ら皇帝になった。
1977年12月4日にはナポレオン1世を模した戴冠式を開き、国家予算の2倍にあたる約2500万ドルを費やしたとされる。ローマ教皇パウロ6世を招いたが、教皇は断った。旧宗主国フランスの大統領ジスカール・デスタンには贈賄工作をして承認と援助を得た。その一方で反対派を弾圧し、1979年1月には小学生への制服着用の義務化に反対する学生のデモを武力で抑え、400人が死んだとされる。国際的な非難が高まる中、同年9月、リビア訪問中にフランス軍の作戦で帝政は倒され、ダッコが大統領に返り咲いた。
ボカサはコートジボワールに亡命して4年間アビジャンで暮らし、のちにフランスへ渡った。ジスカール・デスタンに政権奪還の支援を求めたが色よい返事を得られず、贈賄工作を暴露したため、同大統領が1981年の大統領選挙でミッテランに敗れる一因になったとされる。1986年に周囲の説得を振り切って突然帰国し、逮捕された。1987年に死刑を宣告されたが、減刑されて1993年に釈放された。1996年に75歳で亡くなり、2010年にボジゼ大統領のもとで名誉が回復された。
同じ年に亡くなった人物
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- ピエール・グリマル (1996年没)
- コンスタンティン・ロクテフ (1996年没)
- Robert Lamoot (1996年没)
- トーマス・クーン (1996年没)
同じ地域に関係する人物
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- エリザベート・ドミシアン (2005年没)
- バルテレミー・ボガンダ (1959年没)