HISTORICAL PERSON · 1996年没

アラン・ポエール

フランスの中道派政治家。1968年から24年間元老院議長を務め、その間に2度臨時大統領を務めた。1969年の大統領選ではポンピドゥーに敗れた。

生涯
1996年没
死亡地
フランス共和国(パリ)
出生地
フランス共和国(アブロン=シュル=セーヌ)
出典
世界地図
フランス共和国(パリ)

伝記

アラン・ポエールは、1909年4月17日にヴァル=ド=マルヌ県のアブロン=シュル=セーヌで生まれ、1996年12月9日に亡くなったフランスの中道派の政治家である。人民共和運動(MRP)に籍を置き、のちに民主中道系の会派に属した。元老院議長を1968年から1992年まで務め、その立場で1969年と1974年の二度、臨時大統領の職務を行った。

鉄道技師の父エルネストと母ルイーズのひとり息子で、一家はブルターニュ地方のモルビアンの出とされる。リセ・ルイ=ル=グランで学んだのち、理科に関心があったため当時その分野に強かったリセ・サン=ルイに移り、パリ国立高等鉱業学校を出て技師の資格を得た。しかし健康上の問題から技師の仕事を続けられなくなり、法学を学んで28歳で学士号を取り、自由政治学院でも学んだ。1938年にアンリエットと結婚し、のちに娘マリ=アニエスが生まれた。同じ年に財務省に入り、政界への一歩を踏み出した。

第二次世界大戦では動員されて1940年春のフランスの戦いに加わり、負傷した。1941年からは抵抗組織リベラシオン=ノールに加わって財務省内で活動し、1944年には財務省の解放委員会の委員長に就いた。戦後は財務省の社会福祉部門を率い、アブロン=シュル=セーヌの市長となり、1946年に共和国評議会(のちの元老院)の議員に選ばれた。ロベール・シューマンの官房長を務め、ヨーロッパ問題に携わり、1948年から1952年にはドイツ・オーストリア問題の総弁務官となった。シューマン内閣とクイユ内閣では副大臣を務めた。1950年から1952年にはルール国際機関の議長を務め、1952年からは欧州石炭鉄鋼共同体の共通議会で議席を持ち、共同市場の準備委員会の責任者にもなった。ヨーロッパ統合の強い推進者で、1960年代後半には欧州議会の議長にも就いた。

1968年に元老院議長に選ばれ、フランスの憲法上の序列で第3位の地位に就いた。1969年にはシャルル・ド・ゴールが提起した国民投票で、反対の結果を導く大きな役割を果たしている。ド・ゴールが辞任した1969年4月29日から臨時大統領となり、その間は元老院議長の職を続けながらエリゼ宮に住み、自らも参加する大統領選挙を監督する立場にあった。当初は軍人のケニッグに出馬を促したが、ケニッグが健康上の不安を理由に固辞したため、自ら立候補した。しかし第2回投票でジョルジュ・ポンピドゥーに敗れた。

臨時大統領の間には、ド・ゴールの側近でゴーリストの諜報の中心にいたジャック・フォカールをアフリカ問題担当の職から解任した。国営ラジオ・テレビの幹部には、公共メディアの政治的中立を指示し、その原則は後の大統領にも守られた。1968年の五月革命後も残っていたパリの警察部隊の配置も転換させた。ド・ゴール派のクーヴ・ド・ミュルヴィル内閣との共存は、第1次コアビタシオンと見る向きもある。敗れた後も、世論はその業績を高く評価した。1974年にポンピドゥーが在任中に急死すると、二度目の臨時大統領となったが、このときは立候補せず、当選したジスカール・デスタンに職務を引き継いだ。元老院議長を退いたのは1992年10月1日であり、議員は1995年まで務めた。元老院議長を務めた回数は歴代最多の8期で、元老院議長として大統領の職務を代行した唯一の人物でもある。

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