伝記
クシシュトフ・キェシロフスキは、1941年6月27日にワルシャワで生まれたポーランドの映画監督である。父ロマンは技師で、結核を患っており、治療先を求めて移り住んだため、少年期は小さな町を転々とした。16歳で消防士の養成学校に入ったが、3か月でやめた。進路の目標がないまま、親戚が運営していたことから1957年にワルシャワの演劇技術者学校に入学した。舞台演出家を志したものの、演劇科に必要な学士の資格がなく、その手前の段階として映画を学ぶことにした。
学校を出て舞台の仕立て職人として働きながら、ロマン・ポランスキーやアンジェイ・ワイダを輩出したウッチ映画大学を受験したが、二度落ちた。兵役を逃れるために一時は美術の学生になり、極端な減量で体を不適格にしたこともあるという。数か月の徴兵逃れののち、三度目の挑戦で1964年に演出科へ入学し、1968年まで在籍した。国家の検閲や海外渡航の制限があるなかでも、取材や撮影のためポーランド各地を巡り、演劇への関心を失ってドキュメンタリーを撮ることを決めた。1966年に初の短編映画を発表し、1980年までにドキュメンタリーを中心に21本の短編を製作した。1970年の大規模なストライキの原因を労働者が語る1971年のテレビ作品は、大幅に検閲を受けた形でしか放映されなかった。のちに、この検閲と、1981年の作品の撮影中に自分の映像が刑事事件の証拠に使われかけた出来事を理由に、ドキュメンタリーから離れたと語っている。
1976年に初の長編劇映画『傷跡』を発表し、1979年の『アマチュア』はモスクワ国際映画祭で金賞を受け、翌年にはシカゴ国際映画祭でゴールデン・ヒューゴ賞を得た。同作は、当時のポーランド映画界で「モラルの不安の映画」とされた潮流の代表作と見られている。初期の作品はいずれも検閲や撮り直しを受けた。1981年に完成した『偶然』は上映禁止となり、公開は1987年だった。1989年から1990年にかけ、聖書の十戒を題材にした10編のテレビシリーズ『デカローグ』を製作し、ヴェネツィア国際映画祭で国際映画批評家連盟賞を受けた。その第5話と第6話を劇場用に再編集した『殺人に関する短いフィルム』は、1988年のカンヌ国際映画祭で審査員賞と国際映画批評家連盟賞、ヨーロッパ映画賞の作品賞を受賞し、『愛に関する短いフィルム』も複数の映画祭で賞を得た。『デカローグ』はスタンリー・キューブリックに激賞された。
1991年にはポーランドとフランスを舞台に、同じ名前と容姿をもつ二人の女性を描く『ふたりのベロニカ』を発表した。1993年からはフランス政府の依頼で、国旗の三色が象徴する「自由・平等・博愛」を主題にした三部作を製作した。第1作『トリコロール/青の愛』は同年のヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を受け、翌年の第2作『トリコロール/白の愛』はベルリン国際映画祭で監督賞を受けた。第3作『トリコロール/赤の愛』はカンヌ国際映画祭に出品されたが、無冠に終わった。1995年にはアカデミー賞の監督賞と脚本賞にノミネートされた。その後、一時は映画監督の引退を宣言し、演劇学校で新人俳優の指導にあたったが、1995年に復帰を表明し、ダンテの『神曲』を題材にした「天国・地獄・煉獄」三部作の脚本に着手した。しかし1996年3月に心臓発作で亡くなった。没日は13日とも14日とも伝えられる。脚本の完成部分は、天国編が2002年にトム・ティクヴァによって、地獄編が2005年にダニス・タノヴィッチによって映画化された。
同じ年に亡くなった人物
- クリスティーヌ・パスカル (1996年没)
- ヴェロニカ・ゲリン (1996年没)
- エドヴィン・ヴィーデ (1996年没)
- Gulab Bai (1996年没)
- ダン・フレイヴィン (1996年没)
同じ地域に関係する人物
- シモン・アスケナジ (1935年没)
- ヴァツワフ・シェルピニスキ (1969年没)
- クシシュトフ・コメダ (1969年没)
- イェジ・アンジェイェフスキ (1983年没)
- マウゴジャータ・ブラウネック (2014年没)