伝記
オーストロモワヌ(オーストルモワーヌ、ストレモニウスとも)は、「オーヴェルニュの使徒」と呼ばれ、クレルモンの初代司教とされる人物である。カトリック教会で聖人として崇敬され、記念日は11月1日とされる。生涯についてはほとんど確かなことが分かっておらず、伝わる話の多くは伝説の性格を帯びている。
トゥールのグレゴリウスによれば、デキウス帝とウェッティウス・グラトゥスが執政官を務めた250年に、教皇ファビアヌスがローマから7人の司教をガリアへ送り出して福音を説かせた。トゥールへはガティアヌス、アルルへはトロフィムス、ナルボンヌへはパウルス、トゥールーズへはサトゥルニヌス、パリへはドニ、リモージュへはマルティアリス、そしてクレルモンへ送られたのがオーストロモワヌだという。グレゴリウスはこの人物をストレモニウスと呼んでいる。
クレルモンでは、元老院議員のカッシウスと異教の司祭ウィクトリヌスを改宗させたと語られる。また弟子のセレヌスをティエールへ、マリウスをサレールへ、アントニヌスをオーヴェルニュの別の地へ送ったとされ、さらにネクタリウスにリマーニュ平原のキリスト教化を命じたという伝承もある。最期は斬首によるものと伝えられる。
のちにクレルモンでは、この人物の時代が1世紀にまでさかのぼらされた。ペトロとともにパレスチナからローマへ来た、改宗したユダヤ人で、イエスの72人の弟子の一人であり、オーヴェルニュのほかベリーやニヴェルネの使徒でもあったとされたのである。しかし実際には、314年のアルル公会議に出席したアキタニアの3人の司教と同時代の人物だった可能性のほうが高いと考えられている。ガリアの主要な司教区には、それぞれ使徒にあたる人物が必要で、歴史の詳細が失われたところでは地元の誇りのためにそうした人物が補われたのではないか、という見方も退けられていない。
遺体は最初、クーズ川沿いのイソワールに葬られ、人々の篤い崇敬を集めたという。その後、遺体は頭部を除いてクレルモンへ移されたとグレゴリウスは述べる。一方、761年にはモザックの修道院へ遺体が移されたともされ、10世紀にはそこで聖人伝が書かれた。イソワールの修道士たちはこれを書き直して増補し、聖人の頭部を聖遺物として保持した。11世紀後半にはさらに脚色された聖人伝が作られた。墓は1197年に開かれた。
同じ年に亡くなった人物
- カルティール (300年(推定))
- エペソスのクセノポン (300年(推定))
- 聖マルシアル (300年没)
- 烽上王 (300年没)
- サーサーン (300年(推定))
同じ地域に関係する人物
- Peire d'Auvergne (1168年没)
- ジョルジュ・オンスロー (1853年没)
- アマブル=ギヨーム=プロスペ・ブルジエール・ド・バラント (1866年没)
- ジャン=バティスト・マシヨン (1742年没)
- Edouard Michelin (1940年没)