伝記
ミハイル・モイセエビッチ・ボトヴィニクは、1911年8月17日に生まれ、1995年5月5日に没したソビエト連邦のチェス選手である。世界チャンピオンの座に三度就いており、期間は1948年から1957年、1958年から1960年、1961年から1963年にあたる。電気工学者でもあり、チェスと工学の両面で足跡を残した。
生まれたのは当時フィンランド大公国のヴィボルグ県にあったクオッカラで、現在はサンクトペテルブルクのレピノ地区にあたる。両親はロシア系のユダヤ人で、父モイセイは歯科技工士、母シフラ(セラフィマ)・ラビノヴィチは歯科医だった。そのため一家は、当時のロシア帝国でユダヤ人の居住が制限されていた地域の外に住むことができ、ボトヴィニクはサンクトペテルブルクのネフスキー大通りの近くで育った。父は家庭でイディッシュ語を話すことを禁じ、兄のイサークとともにソ連の学校へ通った。後年、自分の民族をどう考えるかと問われて、血はユダヤ人、文化はロシア人、育ちはソ連人だと答えたという。1920年に母が病に伏すと父は家を出たが、子どもたちとの連絡は続けた。1923年秋、12歳のときに兄の学校の友人から自作の駒でチェスを教わり、すぐに夢中になった。翌1924年の冬に学校の選手権で優勝し、年齢を3歳多く偽ってペトログラード・チェス協会に加わった。1925年にはレニングラードで世界王者カパブランカが行った同時対局に、相手の一人に選ばれて勝った。1927年には当時最年少でソ連選手権の決勝大会に進み、マスターの称号を得た。
チェスと並んで工学の道も進み、21歳で電気工学の設計士、26歳で工学博士となった。20歳のときにはソ連チャンピオンにもなっている。1948年、ボトヴィニクにマックス・エーワ、サミュエル・ハーマン・レシェフスキー、パウリ・ケレス、ワシリー・スミスロフを加えた5人で、国際チェス連盟が初めて自ら開いた公式の世界王者決定大会が行われ、ボトヴィニクが優勝して王者となった。1957年にスミスロフに敗れたが翌年の再戦で奪還し、1960年にミハイル・タリに奪われると翌年の再戦でまた返り咲いた。1963年にチグラン・ペトロシアンに敗れると世界選手権から退き、1970年にはすべての公式大会から引退した。24局制の世界選手権マッチは7度戦った。防衛戦としては5回で、1951年のダヴィド・ブロンシュテイン戦と1954年のスミスロフ戦は12対12の引き分けによる防衛となり、1957年、1960年、1963年の3回は敗れている。防衛戦で勝利した例はないことになる。
盤上でも盤外でも徹底した準備をすることで知られ、その経験を生かして後進の指導にあたり、カルポフ、カスパロフ、クラムニクの3人の世界王者をはじめ多くの有力選手を育てた。引退後は電気工学者としての経験から、初期のチェス・コンピュータ・プログラムの開発にも貢献した。ジョン・マッカーシーの指導でアラン・コトックが開発した、モスクワの理論実験物理研究所のプログラムの開発にも助言を与えたとされる。ソ連共産党の指導部には人工知能を計画経済へ応用するよう訴えたが、提案を否定的に受け取った指導部は党員だった本人の除名を検討し、その知名度から結局は見送ったという。強固な共産主義者で、ソ連崩壊の際には動揺を隠せなかったと伝えられる。
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