伝記
高師康は、1907年11月9日に埼玉県北足立郡浦和町(後のさいたま市浦和区)で生まれた、サッカー選手、サッカー指導者、新聞記者である。康夫とも表記される。選手時代のポジションはフォワードやハーフバックだった。1914年に埼玉師範学校附属小学校に入学し、6年生だった1919年に、同校で初めて開かれた校内試合に出て優勝した。のちに自著の中で、「埼玉県の小学生でサッカーらしいサッカーをやったのは、私たちが最初であろう」と記している。
1920年に旧制の埼玉県立浦和中学(現在の埼玉県立浦和高等学校)へ進み、4年生の1923年にア式蹴球部を創部した。同じ年には、埼玉師範の卒業生によるクラブ、埼玉蹴球団の選手として、第3回ア式蹴球全国優勝大会の関東予選にも出ている。5年生の1924年には、東京高等師範学校が主催する全国中等学校蹴球大会に出場した。卒業後は、大学予科の旧制早稲田第一高等学院に進み、早稲田大学ア式蹴球部に入った。
1927年、早稲田大学のWMWの選手として極東選手権の予選に出場し、日本代表の座をつかんだ。この年は早稲田第一高等学院の3年だったとされるが、卒業生の轡田三男の証言では大学1年だったという。埼玉県出身者として初めて日本代表に選ばれ、中華民国の上海で開かれた第8回極東選手権大会に参加した。8月27日の中華民国代表との試合が代表デビュー戦となったが、日本は1対5で大敗した。続く8月29日のフィリピン代表戦にも出場し、この試合は日本代表が国際Aマッチで挙げた初めての勝利となった。国際Aマッチの出場は2試合で、得点はない。
旧制早稲田大学の文学部に進んだあともア式蹴球部に残り、WMWの一員として1928年の第8回ア式蹴球全国優勝大会で優勝に貢献した。この年の天皇杯を制したとも記録されている。東京カレッジリーグなどの大会にも出場し、1930年まで同部に在籍した。同じ1928年には、豊島区の本郷中学校で日本蹴球協会が開いた「第1回練習会」(後の技術指導講習会)に、鈴木重義、竹腰重丸、本田長康、有馬洪らとともに講師として加わり、指導に当たった。
1931年に早稲田大学を卒業し、1936年から1962年まで朝日新聞社に勤め、社のサッカー選手として社会人の大会にも出場した。指導者としては、昭和の初めごろに静岡師範学校のコーチを務め、ゲームメーカーの育成に絞った指導で、同校の強化と静岡県のサッカーの発展に貢献したとされる。1956年には市立函館高等学校を指導して、国民体育大会で3位に導いた。1970年代ごろからは秋田県に住み、大曲市サッカー協会に「高師杯」という大会を創設し、自らもシニアチーム「蹴朗会」で活動した。1995年3月26日に死去した。享年87であった。
同じ年に亡くなった人物
- ヴラジミール・ジュリラ (1995年没)
- バール・アイヴス (1995年没)
- パトリシア・ハイスミス (1995年没)
- アントニー・ハミルトン (俳優) (1995年没)
- ジンジャー・ロジャース (1995年没)