伝記
ピエール・ド・ロンサールは、ルネサンス期フランスの詩人で、プレイヤード派の中心人物である。「詩人の王」を意味する称号を与えられ、『オード四部集』や『恋愛詩集』などで知られる。1524年9月、ロワール=エ=シェール県クチュール=シュル=ロワールに近いラ・ポワソニエールの城館で、貴族の家に生まれた。父ルイ・ド・ロンサールは王太子の給仕長を務め、詩に親しんだ人物で、母はジャンヌ・ド・ショードリエである。生まれは、四番目の子とも末っ子ともされる。一族はドナウ川の北の東欧から来たと本人は語ったが、この説は今日では疑問視されている。父はロンサールが幼いころ、フランソワ1世の子らが人質としてスペインに送られたのに従い、1526年から1530年まで不在であった。
幼いころは家庭で教育を受け、12歳ごろにパリのナヴァル学寮へ送られたが、中世的な学校の厳格さを好まず、半年ほどで離れたようである。父は宮廷に入れようとして、王太子フランソワの小姓とし、その死後はオルレアン公シャルルに仕えさせた。王女マドレーヌがスコットランド王ジェームズ5世と結婚すると、ロンサールは彼女に付き従い、スコットランドで3年間を過ごした。スコットランドや各地を巡るうちに、従者の一人からウェルギリウスやホラティウスなどのラテン詩人を教えられ、詩に関心をもったという。1539年から1540年ごろにフランスへ戻り、再びオルレアン公に仕え、フランドルなどへも派遣された。その後、ラザール・ド・バイフの秘書となり、その子で友人のジャン=アントワーヌ・ド・バイフとともに、ジャン・ドラの教えを受けた。
前途有望な外交官としての経歴は、不治の難聴に見舞われて突然に断たれた。ロンサールは学問に生涯を捧げる決意をし、ドラが学長とギリシア語教授を務めるコレージュ・ド・コクレに学んだ。バイフに続いてジョアシャン・デュ・ベレーも加わり、彼の学びは7年に及んだ。古典ギリシア・ラテン文学の根源の摂取を称える文学的な新潮流の宣言である「フランス語の擁護と顕揚」は1549年に友人デュ・ベレーが書き、ここにプレイヤード派が生まれたといえる。ロンサール自身は、1550年に処女作『オード』四部集を出し、1552年には『恋愛詩集』と『オード』第五部を出した。これらは文学界に論争を巻き起こし、マロ派の首領メラン・ド・サン=ジュレは、国王の前でロンサールの詩を滑稽に読み上げてこき下ろそうとした。しかし王妹マルグリットがその詩集を取り上げて読み上げると、大広間は拍手に包まれ、ロンサールは詩人として受け入れられたという。
1555年から1556年に、サヴォイア公妃マルグリットに捧げた『賛歌』を出し、1565年には『哀歌、仮面舞踏会、牧歌』と『フランス詩法の抜粋』を出した。1562年には、宗教戦争の時代を背景に『時代の悲惨に関する言説』も書き、1578年には『エレーヌへのソネット』を出している。フランソワ2世の後に即位したシャルル9世にも重用され、その求めで叙事詩『フランシアード』(1572年)を書いたが、この作品はほかの作品と同等の評価は得ていない。シャルル9世の死後も宮廷での厚遇は変わらなかったようだが、病状が悪化した晩年は、ヴァンドームの家や修道院に滞在し、宮廷を離れて過ごした。多くの友に先立たれたが、創作は優れた水準を保ち、エリザベス1世を含む外国の君主も贈り物をした。1585年12月27日に没し、トゥールのサン=コーム教会に葬られた。
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