伝記
ピエール・ブールは、1912年2月21日に南仏のアヴィニョンで生まれ、1994年1月30日にパリで没したフランスの小説家である。父は風変わりな弁護士で、新聞に演劇評を書いていた人物であり、新聞社の社長の娘と結婚した。ピエールは両親と二人の姉妹のもとで穏やかな子ども時代を送り、父とは文学や本、狩り、遊びを共に好む仲だった。しかし1926年に父が心臓の病で亡くなり、14歳でおとなの世界に放り出された。母を助けるために技術者の道を選び、1932年に高等電気学校を卒業した。
1936年、24歳でマラヤに渡り、クアラルンプールから約50キロ離れたイギリス系のゴム園で、3年にわたり故郷のヨーロッパから遠く離れて必死に働いた。この経験は、のちの小説の骨格になったという。1939年に第二次世界大戦が始まると、前線への志願を決めてシンガポールからサイゴンに向かい、現地で動員された。フランス軍がドイツ軍の前に崩れたときは、装甲車小隊を率いてタイ国境へ派遣された。戦闘はほとんどなかったが、ここでラオスの魅力を知ったという。
1941年、フランスがドイツに占領されているなか、ドイツとの抗戦を訴える自由フランスに加わることを決め、シンガポールのイギリス軍基地で連絡将校の少尉となった。特別訓練を受け、ピーター・ジョン・ルールという偽名でイギリスの偽造旅券を携え、日本に対抗するため、橋の爆破や反乱の扇動を目的にインドシナへ向かった。ところが1942年、到着早々にヴィシー政権側のフランス軍に捕らえられ、反逆の容疑で裁かれて終身の労働刑を言い渡された。2年後にサイゴンからの脱出に成功し、カルカッタでイギリスの特殊作戦執行部の部隊であるフォース136に合流した。この冒険は、1966年の回想録『クワイ河の水源にて』に語られている。
戦後はレジオンドヌール勲章、軍功章、レジスタンスのメダルなどを受けた。フランス側の記述では、ド・ゴール将軍から勲章を授けられたのち、持ち物を売り払ってパリの小さなホテルに移り、執筆に専念したとされる。1950年、38歳で最初の小説『ウィリアム・コンラッド』を発表した。文学の専門的な教育は受けていなかったが、秘密工作員の物語に本物らしさがあり、批評家を魅了したという。1952年の『戦場にかける橋』はサント・ブーヴ賞を受け、1957年にデヴィッド・リーン監督によって映画化された。1963年のSF小説『猿の惑星』は最も有名な作品となり、1968年に映画化され、のちにシリーズ作品へ広がった。ほかに短編集『不合理の物語』などがあり、『報道写真家』は1977年に映画化された。
独身を通し、未亡人となった姉のマドレーヌの家に身を寄せ、姪の娘フランソワーズには書く前の小説をすべて語って聞かせたという。1950年から1992年までほぼ毎年一冊を出し、パリとロワレ県の田舎の家を行き来して暮らした。作品では「単純なものと奇妙なもの」の出会いを描くことを好んだ。1976年には全作品に対して文芸家協会の大賞が贈られた。遺骨はまずパリのペール・ラシェーズ墓地の納骨堂に置かれ、のちに遺灰がアヴィニョンの家族の墓に納められた。
同じ年に亡くなった人物
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- ロバート・ブロック (1994年没)
- リリア・スカラ (1994年没)
- アーサー・ポリット (1994年没)
- ジャン=ルイ・バロー (1994年没)
同じ地域に関係する人物
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- ミシェル・ブラヴェ (1768年没)
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