伝記
ハインリヒ・ハイネは、1797年12月13日にデュッセルドルフのユダヤ人の家庭に、ハリー・ハイネとして生まれたドイツの詩人、文芸評論家、ジャーナリストである。父ザムゾンは織物商、母ベティは宮廷付き銀行家の一族の出であった。長男の彼のほか、妹シャルロッテ、弟のマクシミーリアンとグスターフがいた。1803年にユダヤ人の私学校に入り、翌年ナポレオン法典の公布でユダヤ人もキリスト教徒の学校に入れるようになると、修道院内の学校にも通った。ハリーというイギリス風の名前やユダヤ人の出自のために、少年時代はからかいの対象になったという。1810年にギムナジウムに進み、図画、音楽、ダンス、フランス語の個人レッスンも受けたが、1814年に中退して商人を目指した。
ハンブルクの銀行家である叔父ザロモンのもとで見習いを勤め、叔父の援助で商会を営んだが、1年のうちに潰れた。この頃、叔父の娘である従姉妹アマーリエに恋心を抱いて失恋し、この体験が後の恋愛抒情詩の出発点になったとされる。1819年、叔父の資金でボン大学に入学し、法律の傍ら文学の講義を聴いた。ゲッティンゲン大学に移ったが決闘沙汰で3か月ほどで諭旨退学となり、ベルリン大学に入って終生の師と仰ぐヘーゲルに出会った。1822年に最初の著書『詩集』を出して新進作家として声望を得、1824年にはハルツ山地を徒歩で旅し、のちに『ハルツ紀行』にまとめた。ヴァイマルでゲーテを訪ねたが冷遇されている。1825年にユダヤ教からプロテスタントに改宗したが、両親が知ったのはずっと後のことだった。この年にゲッティンゲン大学を卒業し、法学の学士を得た。
学生時代から50以上の雑誌に寄稿していた彼は、職業作家となり、1826年にハンブルクで『旅の絵』の刊行を始め、1827年には没年まで13版を重ねた代表詩集『歌の本』を出した。同年ミュンヘンに移り、ロベルト・シューマンと親交を結んでいる。イギリス、イタリア、ヘルゴラント島を旅して、その体験を『旅の絵』や『イギリス断章』にまとめた。しかし政治や社会への批判のために、ドイツ当局に監視されるようになり、1831年5月にパリへ移って終生をそこで過ごした。ベルリオーズ、ショパン、リスト、バルザック、ユーゴー、サンドらと交流し、1841年にはマチルドと結婚した。1843年には若いマルクスと親交を結び、1845年にマルクスが出国するまで頻繁に会った。1844年には窮乏した織物工の蜂起を題材にした時事詩「貧しき職工たち」を発表し、エンゲルスに激賞されている。
1844年に叔父ザロモンが没すると遺産をめぐる争いが起こり、1847年にようやく合意した。このころから麻痺で健康が急速に悪化し、1848年5月のルーブル美術館訪問を最後に外出できなくなった。病床で1851年に『ロマンツェーロ』を刊行し、1855年からは若い女性エリーゼ・クリニッツが訪れて最晩年の交流を持った。1856年2月17日に没し、モンマルトル墓地に葬られた。平易な詩には多くの作曲家が曲をつけ、シューマンの『詩人の恋』やメンデルスゾーンの「歌の翼に」、ジルヒャーの「ローレライ」などが生まれた。日本でも森鷗外の翻訳以来、多くの詩人に親しまれた。
同じ年に亡くなった人物
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