伝記
アントニオ・カルロス・ジョビンは、ブラジルの作曲家、演奏家、歌手である。通称はトム・ジョビンで、1927年1月25日にリオデジャネイロのチジュッカ地区に生まれた。父は作家、外交官、教授、ジャーナリストで、親戚には上院議員や医師もおり、白人中流階級の出身だった。裕福な家庭に育ったが、学歴は充分には得られなかったという。
14歳のころからピアノを始め、作曲も学び始めた。音楽家として生きたいと願ったが、家族を養うことを考えて建築学校に入学した。しかし音楽の夢を捨てきれず、ラジオやナイトクラブでピアノ奏者として働いたあと、ハダメス・ジナタリに見いだされ、コンチネンタル・レコードで譜面起こしや編曲の仕事をこなした。1953年にはオデオン・レコードにアーティスト兼レコーディング・ディレクターとして採用された。このころは幼なじみのニュウトン・メンドンサと組んで作曲に励んでいた。ピシンギーニャやヴィラ=ロボスの影響を強く受け、ドビュッシーやラヴェルなどクラシックの作曲家からの影響も大きかった。
脚光を浴びたのは、詩人で外交官でもあるヴィニシウス・ヂ・モライスが制作した舞台『オルフェウ・ダ・コンセイサォン』(1956年)の音楽による。以後モライスと共に曲を作るようになり、ルイス・ボンファとの映画『黒いオルフェ』のサウンドトラック盤(1959年)も世界的に知られた。1959年には、ジョアン・ジルベルトが、最初のボサノヴァ・ソングとされる「想いあふれて」をリリースした。ジョアンのギターだけでサンバのリズムを刻む奏法と、ささやくような歌い方に惚れ込んだジョビンが、モライスとの共作を提供し、苦労の末にレコードの発売までこぎ着けたものである。この新しい音は、従来のサンバ・カンサォンの重苦しさに否定的だった若者たちの心をとらえ、ボサノヴァのムーブメントを形成した。ジョアン、ヴィニシウスらとともに、1950年代後半にボサノヴァを生み出した先駆者とされる。
モライスと作った「イパネマの娘」は、ジョアン・ジルベルトとスタン・ゲッツの共作アルバムから人気となり、アストラッド・ジルベルトも有名にした。メンドンサとの「ヂザフィナード」や「ワン・ノート・サンバ」も、ボサノヴァとジャズの双方でカヴァーされている。1965年に自らが歌う作品を初めて出し、1967年にはフランク・シナトラとの共作を発表して、アメリカでも人気を得た。同じ年には名プロデューサー、クリード・テイラーのCTIレコードから、自作の器楽アルバム『波』を、クラウス・オガーマンの編曲で発表し、のちにエウミール・デオダートの編曲で『潮流』や『ストーン・フラワー』も録音した。1970年代にはエリス・レジーナとのデュエット「三月の水」が人気となった。70年代後半にはアナ・ベアトリスと出会って結婚した。1980年のモライスの死後には、家族を中心にバンダ・ノヴァを結成し、遺作『アントニオ・ブラジレイロ』などを録音し、1986年8月には来日もした。
アマゾンの熱帯雨林を守る活動にも取り組み、スティングとも交友があった。1994年にニューヨークのマウントサイナイ病院で心臓発作のため亡くなり、リオデジャネイロのサン・ジョアン・バチスタ墓地に葬られた。ブラジルでは大統領令が出され、国民は3日間の喪に服したという。1999年にはリオの国際空港が、功績をたたえて「アントニオ・カルロス・ジョビン国際空港」と改称された。
同じ年に亡くなった人物
- クレメント・グリーンバーグ (1994年没)
- ジョーン・ハリソン (脚本家) (1994年没)
- 木村資生 (1994年没)
- ニッキー・ホプキンス (1994年没)
- エリシュカ・ユンコヴァー (1994年没)
同じ地域に関係する人物
- レスリー・ゴーア (2015年没)
- クレメント・グリーンバーグ (1994年没)
- バド・パウエル (1966年没)
- ハリール・ジブラーン (1931年没)
- ロバート・ラッセル・ベネット (1981年没)