伝記
アンドレス・エスコバル・サルダリアガは、1967年3月13日にコロンビアのメデジンで生まれた元サッカー選手で、ポジションはディフェンダーである。中流家庭に育ち、学校のサッカーチームでプレーしたのちプロになった。1986年8月31日、19歳でアトレティコ・ナシオナルの一員としてデビューし、1989年にはクラブのコパ・リベルタドーレス優勝に貢献し、国内リーグでも1991年と1994年の優勝を経験した。1990年にはスイスのヤングボーイズでも短期間プレーした。この活躍から、当時のインテルが獲得に興味を示していたという。インターコンチネンタルカップではACミランと対戦し、0対1で敗れた。空中戦に強いだけでなく攻撃参加も得意で、左足でも強烈なシュートを放ち、代表では主将も任された。
1988年の南米選手権で代表入りし、同年のイングランド戦では、コロンビア代表としてイングランドから初めてゴールを奪った選手となった。1990年のワールドカップイタリア大会では堅実な守備で同国初のグループリーグ突破に貢献したが、決勝トーナメント1回戦でカメルーンに1対2で敗れ、ベスト16に終わった。国際Aマッチは52試合1得点である。1993年3月には大けがで約8か月の離脱を強いられたが、同年10月に回復し、1994年のワールドカップに臨む代表に名を連ねた。コロンビアは攻撃陣にカルロス・バルデラマらを擁する優勝候補の一角と目され、エスコバル自身も大会後のACミラン移籍が決定的となっていた。
しかし初戦でルーマニアに1対3で敗れ、第2戦の開催国アメリカ戦は負けられない状況となった。先発したエスコバルは前半35分に痛恨のオウンゴールを喫し、チームは1対2で敗れて1次ラウンド敗退が決まった。第3戦のスイス戦には2対0で勝ったが、優勝候補と見られていた大会を早々に去ることになった。代表選手の多くが国民の非難や報復を恐れてアメリカに留まるなか、エスコバルは「自分はあのオウンゴールについてファンやマスコミに説明する義務がある」と考え、仲間たちの制止に耳を貸さず、ただ一人で帰国した。到着時には「人生はここで終わりではない」と語り、アトレティコ・ナシオナルでの活動を再開しようとしていたという。
1994年7月2日の深夜3時半頃、メデジン郊外のバーで友人と過ごした後、店から出たところを銃撃され、27歳で亡くなった。一緒にいた友人によれば、犯人のウンベルト・ムニョス・カストロは「オウンゴールをありがとう」と口にしながら、12発の銃弾を撃ち込んだという。婚約者がおり、結婚式の5か月前のことだった。大会中に伝えられたこの事件は世界中に報道され、直後のドイツ対ベルギー戦とスペイン対スイス戦では、キックオフ前に黙祷が捧げられた。この事件は「エスコバルの悲劇」と呼ばれ、報復行為と広く信じられているが、単独犯だったのか、賭博組織が関与したのかは明らかにされていない。家族はのちに、恵まれない子どもにサッカーを教えるプロジェクトを設立した。日本では、この事件をきっかけに、それまで「自殺点」と呼んでいたオウンゴールの呼び名が改められたという。2006年にドイツで開かれたストリートサッカー大会の優勝トロフィーは、非暴力の象徴として「アンドレス・エスコバル杯」と命名された。
同じ年に亡くなった人物
- ドミトリー・イワネンコ (1994年没)
- モーリン・コックス (1994年没)
- メリナ・メルクーリ (1994年没)
- エヴゲーニー・ドルマトフスキー (1994年没)
- マーク・スティーヴンス (1994年没)
同じ地域に関係する人物
- ラウラ・モントヤ・ウペギ (1949年没)
- フェルナンド・ボテロ (2023年没)
- アルトゥール・ブラジリアーノ・マイア (2016年没)
- カルロス・ガルデル (1935年没)
- クレーベル・サンタナ・ロウレイロ (2016年没)