伝記
フェルナンド・ボテロは、1932年4月19日にコロンビアのメデジンで生まれ、2023年9月15日に91歳で亡くなった画家、彫刻家である。本名はフェルナンド・ボテロ・アングーロで、ネオ・フィギュラティブ(新しい具象)の作家とされる。人間や動物を誇張したふくよかな体型で表した作品で知られ、自らを皮肉まじりに「最もコロンビア人らしい芸術家」と呼んだ。肖像画を最も重視する傾向があったが、静物画や風景画も残している。
父ダビドは馬に乗って物を売り歩く商人で、母フローラはお針子だった。兄フアン・ダビドは4歳上で、1936年には弟ロドリゴが生まれたが、同じ年に父は心臓発作で亡くなった。1938年から地元で学び、1944年には叔父の願いで闘牛士の学校に通ったが、牛との事故で闘牛をやめた。このころ闘牛士を描いた水彩が最初の作品とされる。家族が画家への志向を理解したのち、1948年にメデジンで最初の展覧会を開いた。地元紙『エル・コロンビアーノ』にさし絵を描いて学費を稼いだが、ピカソについて書いた記事とその挿絵が猥褻とみなされ、通っていた学校を退学になり、別の学校で中等教育を終えた。バロック様式の教会が残る街で育った少年時代は、美術館のような伝統的な芸術資産から離れていたという。
1951年にボゴタへ移り、知識人たちと交わって、この年に二度の個展を開いた。油彩『海を前にして』が全国美術展で2位となり、その賞金や作品の売却で、1952年にヨーロッパへ渡った。バルセロナを経てマドリードに落ち着き、サン・フェルナンド王立美術アカデミーに入学して、生活のためにプラド美術館の外で絵を描いた。1953年にはパリで夏を過ごし、フィレンツェのサン・マルコ美術アカデミーで学んだ。ピエロ・デラ・フランチェスカ、パオロ・ウッチェロ、ティツィアーノらイタリア・ルネサンスの作品を研究し、バーナード・ベレンソンの著書とウッチェロの『サン・ロマーノの戦い』が、絵画における量感の探求を決定づけたとされる。1955年に帰国してボゴタで開いたヨーロッパ時代の作品展は、当時のコロンビアがフランスの前衛に影響されていたため、批判を受け冷たく迎えられた。
その後グロリア・セアと結婚し、1956年にメキシコシティへ移った。アレハンドロ・オブレゴンやルフィーノ・タマヨの影響を受け、静物画で量感を試すうちに自分の表現を見いだし、やがて人物にも広げていった。翌年にはニューヨークで初めて展示し、成功が始まった。1958年にはコロンビア芸術家展の最優秀賞を得て、ボゴタの国立大学美術学校の教員に任じられた。のちにヨーロッパで絵を学び、ニューヨークへ移住し、1973年からは彫刻も手がけた。太った人々を描く理由を、批評家は風刺と解釈することが多いが、本人は、芸術家は理由を知らず直感で形に引かれ、理屈は後からつけるものだと述べている。
2000年には個人コレクション208点をボテロ博物館に寄贈した。2004年には、1999年から2004年に描いたコロンビアの内戦の油彩23点とデッサン27点を国立博物館に寄贈した。2005年にはアブグレイブ収容所での米兵による虐待を描いた絵画50点を発表し、事件への怒りと衝撃を表した。この連作は売却せず、記憶のために美術館に寄付する意向だと語った。2018年には、ドン・ミラー監督のドキュメンタリー映画『ボテロ』がつくられ、2022年には日本でも「ボテロ展 ふくよかな魔法」が開かれた。
同じ年に亡くなった人物
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