HISTORICAL PERSON · 274年没

曹芳

魏の第3代皇帝。8歳で即位し曹爽と司馬懿が補佐したが、高平陵の変で司馬懿が実権を握り、後に廃位されて斉王に戻された。

生涯
274年没
死亡地
晋
出生地
魏
出典
世界地図
位置情報未登録

伝記

曹芳は、三国時代の魏の第3代皇帝である。字は蘭卿といい、232年に生まれ、274年に没した。のちに少帝芳、廃帝芳、斉王芳とも称される。先代の曹叡の養子で、曹叡の子が相次いで夭折したため、親族の秦王曹詢と曹芳の兄弟が養子に迎えられ、皇太子候補として養育されたという。実の親については議論があり、曹彰の子である任城王曹楷の子であろうとされるが、幼いころの経歴ははっきりしない。235年(青龍3年)に斉王に封ぜられた。238年(景初2年)には女王卑弥呼の使者が洛陽に到着して拝謁を求めたが、この遣使を翌年とする異説もあり、その場合に拝謁したのは曹芳だということになる。

239年(景初3年)正月、危篤となった曹叡は曹芳を皇太子に立てた。曹芳はわずか8歳であったため、後見の人選が行われた。曹叡は曹宇を大将軍に任じて後事を託そうと考えていたが、劉放と孫資らが反対し、結局、曹爽と司馬懿が後見人とされた。曹叡は同じ日に亡くなって高平陵に葬られ、曹芳が即位した。政務は曹爽と司馬懿が取り仕切り、二人は剣を帯び靴を履いたままの昇殿、朝廷内で小走りしなくてよいこと、目通りの際に実名を呼ばれないことという特権を与えられた。司馬懿は対蜀漢の前線を任され、曹爽が内政、司馬懿が軍事を管轄したが、当初は曹爽が年輩の司馬懿を敬い、大きな軋轢はなかった。243年(正始4年)に曹芳は元服し、この年に曹操の廟庭に功臣20人を祭り、倭国の女王が朝貢したともされる。また甄氏を皇后に迎えたとされる。

曹芳は魏の歴代皇帝の中で最も長く在位したが、在位中に国家の実権を握ったことはなく、政治は摂政たちに左右された。曹爽は次第に司馬懿の権限を削ぎ、重要事項を一人で決めるようになった。241年には呉の朱然らが樊城を包囲し、司馬懿が救援に赴いて退けた。244年、曹爽は功を立てようと蜀漢への侵攻を企てた。司馬懿は失敗を予期して強く反対したが、曹爽は出兵を強行し、食糧が尽きて大きな損害を出して退いた。これ以降、両者の対立は表面化した。246年には毌丘倹と王頎が高句麗を討伐し、翌年ごろに朝鮮半島の直轄化が完了したとされる。247年、司馬懿は病を理由に政務から身を引き、李勝が訪ねたときには重病を装って曹爽らの警戒を解かせたという。

249年(嘉平元年)1月、曹芳と曹爽が明帝の陵墓である高平陵に参拝に出た隙を突いて、司馬懿は洛陽の城門を閉ざして制圧し、郭太后の名で曹爽らの罷免を求める詔を曹芳に送った(高平陵の変)。曹爽は降伏したが、数日後、一族と一党は誅殺され、その後、曹芳は司馬氏の支持者に迫られて司馬懿に九錫を授けようとしたが、司馬懿は辞退したという。以後の魏は事実上司馬氏の支配するところとなった。251年には王淩が曹彪を擁してクーデターを図ったが露顕し、王淩は自殺、曹彪も死罪となった。同じころ司馬懿が死去し、子の司馬師が実権を握った。254年には李豊・夏侯玄・張緝らが司馬師の排除を計画して失敗し、関係者はすべて誅殺された。張緝は張皇后の父であり、張皇后は廃されて王皇后が立てられた。

この事件をきっかけに司馬師は皇帝の廃位を計画した。曹芳は成人したのに政務を見ず、色欲に耽っているという理由で廃位され、斉王に戻された。23歳であった。洛陽を去るとき、見送ったのは数十名の朝臣だけだった。その後、曹髦が即位した。265年に晋が成立すると邵陵公に降格され、274年に43歳で死去した。諡は厲とされ、邵陵厲公と呼ばれる。

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