伝記
ゼノビアは、3世紀に存在したパルミラ帝国の「女王」と呼ばれた人物である。アラビアのベニサマヤド部族の長ザッバイを父に、240年頃に生まれたとされる。パルミラの碑文には「最も傑出した敬虔なる女王、セプティミア=バト=ザッバイ」と記されている。母はギリシア人だったという説が有力だが、古代エジプト語やエジプト文化に精通していたことからエジプト出身とする見方もあり、前半生には不明点が多い。エジプト語のほかラテン語・ギリシア語・シリア語・アラビア語に通じ、側近の哲学者の指導を受けて、ホメロスとプラトンの比較論や歴史書を著したとされるが、いずれも散逸した。
名前が初めて史料に現れるのは、258年にパルミラ一帯を治める有力者セプティミウス・オダエナトゥスの後妻となったときである。やがて初子ウァバッラトゥスが生まれた。オダエナトゥスは、皇帝を僭称したクィエトゥスの討伐やサーサーン朝の首都クテシフォンへの2度の攻撃などで功績を挙げ、ガッリエヌス帝の信頼を得た。ゼノビアはこれらの遠征にパルミラ軍とともに同行し、軍装をまとってその智謀で夫を支えたという。267年にオダエナトゥスが甥に暗殺され、前妻の子ヘロデスも同時に殺されると、パルミラは混乱に陥った(ゼノビアが仕組んだともされる)。ゼノビアはウァバッラトゥスを後継者に据え、自らは共同統治者となって事態を収拾した。
268年にガッリエヌスが暗殺されると、ゼノビアはローマの混乱に乗じ、「サーサーン朝の侵略から東部属州を護る」という名目でエジプトやカッパドキア、パレスティナなどへ軍を送り、領土を広げた。自らを「エジプトの女王」と称し、「戦士女王」とも呼ばれた。騎馬術にも優れていたという。カルタゴの女王ディードー、アッシリアの女王セミラミス、クレオパトラの後継者を自称したともいわれる。
270年にローマ皇帝となったアウレリアヌスは、北方異民族を退けると東西の分離勢力に目を向け、パルミラに降伏を勧告した。272年、ゼノビアはアウグスタを自称し、ウァバッラトゥスにアウグストゥスを名乗らせて記念貨幣を発行し、対抗の姿勢を示した。同年、アウレリアヌスが親征すると、ゼノビアは自ら陣頭に立って士気を鼓舞し、戦闘指揮はエジプト攻略で活躍したザブダスに任せたが、アンティオキア近郊とエメサの2度の戦いに大敗し、ウァバッラトゥスは戦死した(捕虜となった後に死亡したともされる)。ゼノビアはパルミラに籠城したが、エジプトを攻略したプロブスの軍が到着してローマ軍の兵站線が確保されると、ペルシアへの逃亡を図り、ユーフラテス川を越える前に捕縛された。弁明の場では反乱の責任を臣下に押し付け、命乞いに徹したという。助命された代わりに配下の将兵は処刑され、273年に王国は瓦解した。
ゼノビアはローマへ連行され、274年のアウレリアヌスの凱旋式で黄金の鎖に縛られて市内を引き回されたという。一方、連行中に死亡したと伝える者もある。凱旋式の後はティブルに高級な別荘を与えられ、元老院議員と再婚して数人の娘にも恵まれ、贅沢に暮らしたと伝えられる。アウレリアヌスは書簡に、ローマ人は一女性と戦っているだけだと侮るが、ゼノビアの性格と実力を知らないからだと書き残した。ギボンは『ローマ帝国衰亡史』で彼女を「オリエント世界で屈指の女傑」と評する一方、敗戦後の言動には批判的であった。シリアの旧500ポンド紙幣には肖像が描かれ、小惑星(840)ゼノビアにも名が残る。
同じ年に亡くなった人物
- 陸抗 (274年没)
- 曹芳 (274年没)
- フェリクス1世 (ローマ教皇) (274年没)
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