伝記
ウァバッラトゥスは、パルミラ帝国の君主で、在位は267年から273年とされる。正式にはルキウス・ユリウス・アウレリウス・セプティミウス・ウァバッラトゥス・アテノドルスという。父はパルミラ一帯を支配していたセプティミウス・オダエナトゥス、母はその妻ゼノビアである。259年にシリア砂漠のオアシス都市パルミラで生まれたともいわれ、没年は273年とされるが、生年・没年ともに確かではない。名のウァバッラトゥスは、アラビア語のワハバッラート、すなわち「神アッラートの贈り物」に由来する。アラビアの女神アッラートはアテーナーと同一視されたため、ギリシア名としてはアテノドルスを用いた。父にはほかの女性との間に生まれた兄ヘロディアヌス(ハイラン)がおり、父とともに共同の王として統治していたとされる。
267年、父オダエナトゥスは宴席で親類のマエオニウスに刺殺され、兄も同じく殺された。マエオニウスはその後すぐに処刑されたと伝えられる。後継者となったのは弟のウァバッラトゥスで、わずか8歳であったとされる。彼は「ローマ人の王にして執政官にして最高司令官にして地方長官」および全東方属州総督の称号を得たが、幼少のため実権は母ゼノビアが握り、摂政として政務をとった。二人は統治期間の多くを、シリアの行政の中心地アンティオキアで過ごしたと考えられている。
当時ローマ皇帝に即位していたアウレリアヌスは、西方のガリア帝国や北方の蛮族との戦いを抱えており、パルミラとの戦端を開くことをためらって、当初はウァバッラトゥスの統治を黙認した。初期の貨幣には、ローマ皇帝としてのアウレリアヌスの像が刻まれていたことがその関係を示している。しかし270年ごろからパルミラは、ローマへの従属を装いながら征服を進めた。同年10月には7万のパルミラ軍がローマ領エジプトに侵攻してゼノビアを女王と宣言し、将軍ザブダスがローマの将軍テナギノ・プロブスを破って、エジプトを押さえた。271年にはザッバイ将軍がアナトリアで作戦を始め、ザブダスと合流してガラティア属州を従え、州都アンキュラを占領した。これがパルミラの最大版図となった。
272年ごろには、貨幣からアウレリアヌスの像が消え、ゼノビアが「アウグスタ」、ウァバッラトゥスが「アウグストゥス」と刻まれるようになる。これはパルミラが自立を宣言し、ウァバッラトゥスがローマ皇帝を僭称したことを示すもので、この段階以降を事実上独立した「パルミラ帝国」と呼ぶことがある。これによってアウレリアヌスとの関係は決定的に悪化した。
アウレリアヌスは272年にボスポラス海峡を渡ってアナトリアを急速に進軍し、ティアナに達し、イッソスを通って、アンティオキア近郊のイマイの戦いでゼノビアの軍を破った。パルミラ軍はアンティオキア、続いてエメサへ退き、エメサでも敗れて首都へ撤退した。ローマ軍はパルミラを包囲し、ゼノビアはササン朝に助けを求めようと東へ向かったが、ユーフラテス川の近くで捕らえられた。やがて市民が和を請い、都市は降伏した。ウァバッラトゥスは母や側近とともにエメサへ連れて行かれ、裁判にかけられたという。273年にパルミラは征服され、彼の統治は終わった。ゾシモスによれば、捕虜となったウァバッラトゥスはローマへ連行される途中で死亡したとされる。母ゼノビアもまた捕らえられ、ローマへ連行された。
同じ年に亡くなった人物
- ウァレンティヌス (273年)
- Columba of Sens (273年没)
- ホルミズド1世 (273年没)
- ロンギノス (273年)
同じ地域に関係する人物
- ポセイドニオス (紀元前51年没)
- ドミティア・ロンギナ (120年代没)
- メッティウス・フフェティウス (紀元前672)
- ベネディクトゥス15世 (ローマ教皇) (1922年没)
- ジョヴァンニ・メッセ (1968年没)