伝記
オードリー・ヘプバーンは、1929年5月4日、ベルギーのブリュッセルのイクセルに、オードリー・キャスリーン・ラストンとして生まれた女優である。イギリス国籍を持っていた。父ジョゼフは、ボヘミア出身で、13か国語を話す一流の趣味人だったが、一度もまともに職業に就かなかったという。母エラは、バロネスの称号を持つオランダ貴族で、父は、アーネム市長やスリナム総督を務めた男爵だった。家系図に興味のあったエラが、父方の曽祖父の最初の妻の祖先に、スコットランド女王メアリーの3番目の夫がいることを見つけたことから、ヘプバーン=ラストンの姓を公式に使うようになった。1935年5月、父は家庭を捨てて出て行き、エラは子供たちと故郷のアーネムへ戻った。1937年に幼いヘプバーンは、イギリスのケントに移って、小さな私立女学校に入り、バレエのレッスンにも通いはじめた。
第二次世界大戦の直前、母は再びアーネムへの帰郷を決めた。オランダが中立を保つと思われたためだったが、1940年にドイツがオランダに侵攻した。ドイツ占領下で、「オードリー」というイギリス風の響きの名は危険だと母は考え、ヘプバーンは「エッダ・ファン・ヘームストラ」という偽名を名乗った。1942年には、レジスタンス運動に関係したとして、伯父が処刑され、異父兄の一人は、ベルリンの強制労働収容所に収容された。1943年ごろには、オランダの反ドイツのレジスタンスのため、秘密裏にバレエの公演を行って、資金稼ぎに協力した。アーネムは、連合国軍の作戦の砲撃にさらされ、食料も燃料も不足して、飢えと寒さによる死者が続出し、ヘプバーンたちはチューリップの球根を食べて飢えをしのいだ。1945年5月にオランダが解放されたときには、貧血や喘息などにかかっており、回復を助けたのは、ユニセフの前身の機関から届いた食料と医薬品だった。この少女時代の戦争体験が、のちのユニセフへの献身につながったといわれる。
終戦後の1945年10月に、母とともにアムステルダムへ移り、バレエを学んで、オランダでも有数のバレリーナになった。1948年に、母とロンドンへ渡り、マリー・ランバートのバレエ団で学んだが、170センチの身長と、成長期の栄養不足のために、プリマ・バレリーナになることは難しいと言われた。バレリーナへの夢を断たれ、演劇の世界で生きる決心をし、ウエスト・エンドで舞台に立った。声質の弱さを自覚し、舞台俳優のもとで発声の訓練も受けた。1950年に映画に出演するようになり、1951年には、ブロードウェイ舞台『ジジ』で主役を演じて、1953年に『ローマの休日』でアカデミー主演女優賞を獲得した。その後も、『麗しのサブリナ』『尼僧物語』『ティファニーで朝食を』『シャレード』『マイ・フェア・レディ』『暗くなるまで待って』などの人気作に出演した。1954年のブロードウェイ舞台『オンディーヌ』では、トニー賞を受賞した。
1970年代以降は、映画への出演が少なくなり、後半生の多くを、国際連合児童基金(ユニセフ)の仕事に捧げた。親善大使として、1988年から1992年にかけて、アフリカや南米、アジアの恵まれない人々の援助に献身した。1992年末に、大統領自由勲章を授与されたが、その1か月後の1993年1月20日、スイスの自宅で、虫垂癌により63歳で死去した。
同じ年に亡くなった人物
- スタンリー・マイヤーズ (1993年没)
- ヴィンセント・プライス (1993年没)
- ブランドン・ティーナ (1993年没)
- アグネス・デ=ミル (1993年没)
- イワン・コズロフスキー (1993年没)
同じ地域に関係する人物
- オズヴァルト・ヘール (1883年没)
- ゼイン・アル=シャラフ・タラール (1994年没)
- クララ・カンポアモール (1972年没)
- ジョヴァンニ・ジャコメッティ (1933年没)
- ユハ・ヴァイニオ (1990年没)