伝記
セバスティアン1世は、1554年1月20日にリスボンで生まれた、ポルトガル王国アヴィス王朝の王(在位1557年-1578年)である。父は国王ジョアン3世の子ジョアン・マヌエル、母はスペイン王カルロス1世(神聖ローマ皇帝カール5世)の娘フアナで、両親は父方でも母方でも従姉弟の関係にあった。セバスティアンは父の没した18日後に誕生し、子が生まれなければスペイン王フェリペ2世の王子ドン・カルロスにポルトガルの王位が移るおそれがあったため、国民に歓喜をもって迎えられ、「待望王」と呼ばれた。誕生から4か月後、母は取り決めに従って母国スペインへ戻った。
1557年に祖父が没すると、3歳で即位し、祖母カタリナが摂政として後見した。1562年から1568年までは、大叔父の枢機卿ドン・エンリケが摂政を務めた。1562年に召集されたコルテスは結婚を要請し、伯父フェリペ2世の王女との婚約が取り決められた。度胸があって冒険心に富み、「騎士王」とも呼ばれたが、情緒不安定で虚栄心が強く、他人の意見をほとんど聞き入れなかった。11歳のときにバターリャを訪れ、ジョアン2世の墓を掘り返し、遺体を立たせて「彼こそ王の責務を最もよく果たした人物である」と言ったという。狩猟と乗馬に耽って国政には関心を示さず、実権はエンリケから取り巻きたちに移った。イエズス会士の家庭教師カマラ神父や、アジアやアフリカを転戦した守役のドン・アレイジョが強い影響を与え、14歳の1568年に親政を始めた。幼少から戦争と宗教に異常とも言える興味を示し、自分も偉大な王になる運命だと信じて成長した。
年を経るにつれて十字軍への願望を強め、祖父が維持費のかさむため放棄したモロッコの都市の回復を望んだ。その構想は大胆であったが、計画・戦略・退却への配慮を欠き、彼はそれを臆病者の考えと一蹴した。戦費のために国民と教会に重い負担がかかり、外国商人から多額の軍資金も借り入れた。1574年にサアド朝支配下のモロッコへ初めて上陸して3か月ほど留まったが戦闘は起きなかった。フェリペ2世に支援を求めたが得られず、フェリペは遠征の結果を不安視して結婚の延期まで申し出た。
在位中、海外領土は拡大を続け、1559年にインド西岸のダマンを再征服し、1567年にはブラジルでフランス軍を退けて要塞を占領した。これが後のリオデジャネイロに発展する。奴隷貿易については、改宗への悪影響を懸念して、1571年に日本人の奴隷交易の中止を命じている。
モロッコの王位を追われたムーレイ・ムハンマドが支援を求めると、1578年夏、傭兵を含む約1万5千の兵を率いて再び上陸した。軍は統制がとれず規律に欠けていた。1578年8月4日のアルカセル・キビールの戦いでポルトガル軍はイスラーム軍と戦って史上最大の惨敗を喫し、敵のアブー・マルワン・アブド・アル=マリク1世と味方のムーレイ・ムハンマドは共に戦死し、セバスティアンは行方不明となった。遠征の戦費は歳入の半分に達した。生涯独身で嫡子はなく、王位を継いだ枢機卿エンリケ1世も後継者を決められないまま1580年に没し、ポルトガルはフェリペ2世の支配下に入った。
戦後、遺体が見つからなかったことから、敗北を恥じて姿を隠しているだけで王は戦死していないと信じられ、各地にセバスティアンを詐称する者が現れた。この待望論はセバスティアニズモと呼ばれ、1640年に蜂起して独立を回復したジョアン4世のブラガンサ王朝の正統性を強める根拠にも利用された。
同じ年に亡くなった人物
- セバスティアーノ・ヴェニエル (1578年没)
- ジェームズ・ヘップバーン (第4代ボスウェル伯爵) (1578年没)
- Cristoforo Madruzzo (1578年)
- ジュリオ・デッラ・ローヴェレ (1578年)
- メアリー・グレイ (1578年没)
同じ地域に関係する人物
- サイイーダ・アル・フッラ (1561年没)
- アブー・サービト・アミール (1308年没)
- アブー・アブドゥッラー・ムハンマド2世 (1578年没)
- ジャン (ギーズ公) (1940年没)
- ポール・ルーカス (1971年没)