伝記
フランシス・ベーコンは、1909年10月28日、当時まだ連合王国の一部であったアイルランドのダブリンに生まれた画家である。父エドワードはボーア戦争に従軍した退役軍人で競走馬の訓練士、母はシェフィールドの製鋼所と炭鉱を持つ家の相続人であったとされる。父方の家系は、哲学者フランシス・ベーコンの異母兄ニコラス・ベーコンの直系の子孫だと伝えられる。一家はアイルランドとイギリスの間を何度も移り住み、その落ち着かなさは生涯ベーコンについて回ったという。小児喘息の持病があったため正規の学校教育は受けず、個人授業で育ち、子守のジェシー・ライトフットが母のように身近にいた。17歳のとき、自宅で母の下着を身に着けているところを父に見つかって勘当された。
美術の専門教育は受けていない。1926年頃から水彩や素描を描き始め、1927年から翌年までベルリンとパリに滞在し、1929年からはロンドンで家具設計や室内装飾の仕事をした。油絵を始めたのもこの頃である。本人は、関心を持ち続けられる主題を探すのに時間がかかり、画業が遅れたと語っている。1934年にロンドンのサンダーランド・ハウスで初の個展を開いたが、1930年代から40年代の自作の大部分を自ら破棄してしまった。ゲイであることは、偏見の強い当時のイギリスで公にしていたとされる。
1944年に創作を再開した。十字架の足元の人物を描いた同年の三連作が評価を決定づけたとされ、1945年にはルフェーヴル・ギャラリーで『キリスト磔刑図のための3つの習作』を発表している。1949年には「頭部」シリーズに取りかかってハノーヴァー画廊で個展を開いた。1950年からロイヤル・カレッジ・オブ・アートで後進を指導し、1954年のヴェネツィア・ビエンナーレのイギリス館に出品して、この頃から評価が定着した。抽象絵画が全盛の戦後の美術界で具象にこだわり、大きな口を開けて叫ぶ人間像を激しくゆがめて描いた。その叫びは歯科向けとみられる写真集や映画『戦艦ポチョムキン』の老女の姿を参照したもので、ベラスケスの『教皇インノケンティウス10世の肖像』を下敷きにした作品もある。現存する絵画は約590点とされる。
1971年に恋人ジョージ・ダイアーが自殺すると、作風はいっそう暗く内省的になり、時の流れと死への関心が強まった。ソーホーで飲み、賭けに興じていた仲間とは距離を置き、のちに遺産相続人となるジョン・エドワーズと、友情に近い穏やかな関係を結んだ。1978年には親友バリー・ジュールと知り合い、ジュールは制作中のアトリエに入ることを許された唯一の人物だったと言われる。生涯に5人の恋人がいたが、いずれも男性で、結婚には至らなかった。最後の恋人であるスペイン人ホセ・カペッロとは1988年に出会ったものの、すぐ別れを切り出された。
1992年4月18日、よりを戻そうとスペインへ発つ朝、ベーコンはジュールに自分の作品を車へ積ませた。これが後に知られるバリー・ジュール・コレクションである。ジュールが会えたのはこの日が最後で、ベーコンは10日後の4月28日、マドリードの路上で心臓発作により倒れているところを発見され、そのまま亡くなったと言われる。ホセに会えたのかどうかは分かっていない。死後に評価は高まり続け、2013年11月13日にロンドンのオークションで作品が1億4240万5000ドルのそれまでの美術品史上最高額で落札された。半生は1998年に映画化されている。
同じ年に亡くなった人物
- リチャード・ハント (人形使い) (1992年没)
- ジム・ギャリソン (1992年没)
- シドニー・ノーラン (1992年没)
- Francisco Urroz (1992年没)
- ペヨ (1992年没)
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- フアン1世 (カスティーリャ王) (1390年没)
- フェルナンド・プリモ・デ・リベラ (1921年没)
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