伝記
ウジェニー・ド・モンティジョは、1826年5月5日にスペインのグラナダで生まれた、フランス皇帝ナポレオン3世の皇后である。生まれたときの名はマリア・エウヘニア・イグナシア・アグスティナ・デ・パラフォクス・イ・キルクパトリックで、テバ伯爵令嬢だった。父はテバ伯爵などの称号をもつスペイン貴族のシプリアーノで、ボナパルト主義者だった。母マリア・マヌエラ・キルクパトリックは、スコットランドとベルギーの血を引いた。1歳上の姉パカとともに、1834年から1838年までパリの聖心会修道院で教育を受け、厳格なカトリックの教えは、のちの信仰に大きな影響を与えた。幼いころから父に連れられて乗馬をし、焚き火をして野営するような遠乗りにも出かけた。メリメの紹介で小説家スタンダールと知り合い、メリメは生涯の友となった。13歳のとき最愛の父が亡くなり、母との仲はうまくいかなくなった。
姉パカは家族の栄典の多くを相続して、1849年に幼なじみのアルバ公と結婚した。アルバ公に恋をしていたウジェニーは、失恋の痛手から、男装してマドリードの町を煙草を吸いながら闊歩したり、闘牛場に男装で現れたりするなどの奇行を5年ほど続けた。しかしやがて姉夫妻を友人として認めることにし、生涯の友人となった。21歳で亡き父の多くの称号を受け継ぎ、第9代テバ女伯となった。各国の王侯貴族からの求婚を断り続けたため、「鉄の処女」といわれたという。1848年にルイ=ナポレオンが第二共和政の大統領になると、母とともにエリゼ宮の舞踏会に姿を現した。これが未来の皇帝との出会いだった。
1853年1月22日、ナポレオン3世は玉座で行った演説で、自分の結婚を公式に発表した。1月29日にテュイルリー宮殿で結婚式を挙げ、翌日にはノートルダム大聖堂で再び式を挙げた。この結婚はイギリスの新聞に風刺され、ヴィクトリア女王は「下品で気がきかない縁組」とコメントした。皇族や内閣、宮中の人々までが、この結婚を恥辱と見なした。26歳のスペインの伯爵令嬢は、ボナパルト家にふさわしくないとされたのである。1855年にイギリス王室の招待で皇帝とイギリスを公式訪問し、ヴィクトリア女王に非常に気に入られて、二人は生涯の友人となった。翌年のパリ万国博覧会には、返礼としてイギリス王室の人々をフランスに招いた。1856年3月16日に皇子ナポレオン・ウジェーヌ・ルイ・ジャン・ジョゼフを産んだ。
美しさと気品は皇帝支配の輝きに貢献した。1855年に着けた新しい骨組みのクリノリンは、ヨーロッパの宮廷にファッションの流行を巻き起こした。結婚当初から慈善活動に力を入れ、お忍びで慈善バザーや病院を見舞い、1866年には女性を初めて電報局で雇用した。知性があり、皇帝はよく重要な問題を彼女に相談し、1859年、1865年、1870年の皇帝の留守の間、摂政として行動した。カトリックで保守的だったため、帝政のリベラルな勢力と対立し、教皇の世俗権力の忠実な守護者として、反教権主義者にしばしば中傷された。
普仏戦争でフランスが敗れ第二帝政が倒れると、夫とともにイギリスへ亡命し、ケント州に住んだ。皇帝は1873年に亡くなり、1879年にはズールー戦争で息子ナポレオン・ウジェーヌが戦死した。その後ハンプシャーのファーンバラに移り、フランスの政治には一切干渉せず余生を過ごした。1920年7月、94歳で、スペインのマドリードで姉の孫を訪ねている際に死去し、ファーンバラの聖ミカエル修道院に、夫と息子とともに葬られた。
同じ年に亡くなった人物
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