伝記
ホセ・フェラーは、プエルトリコ出身の俳優、映画監督、舞台演出家である。本名はホセ・ビセンテ・フェレール・デ・オテーロ・イ・シントロンといい、1912年1月8日にサンフアンで生まれた。父ラファエルは地元の弁護士で文筆家、母はマリア・プロビデンシア・シントロンである。祖父ガブリエル・フェレール・エルナンデスは医師で、スペインからのプエルトリコ独立を唱えた人だった。裕福な家に生まれたため、芸術や音楽、人文学の影響の中で育ち、エルビラとレティシアという二人の妹がいた。
幼いころのニューヨークへの移住については、資料に食い違いがある。母の死後の1914年、2歳のときに一家で移ったとする記述と、10歳ぐらいで渡米したといわれるとする記述がある。リオ・ピエドラスのコレヒオ・サン・ホセで初等教育の一部を受け、スイスの寄宿学校ル・ロゼにも学んだ。幼いころは話し方に悩みがあったが、のちにスペイン語、英語、フランス語、イタリア語などを含む五つの言語を身につけたという。プリンストン大学で建築学を学び、1933年に学位を得た。大学では劇団トライアングル・クラブに所属し、バンドでピアノも弾いた。部員にすすめられて受けたオーディションが人生を変え、1934年夏にロングアイランドの劇場で初めて職業俳優として舞台に立った。翌年にはコロンビア大学でロマンス語を学んだ。
1935年、『ささやかな殺人事件』でブロードウェイにデビューした。1936年から1938年の『ブラザー・ラット』で577回の公演を重ねる最初の大きな成功を収め、1939年から翌年には、ポール・ムーニーと共演した『キー・ラーゴ』にも出た。1940年から1941年には『チャーリーの叔母さん』の題名役を女装を交えて演じ、大評判を得た。1943年から1944年には、ポール・ロブソンが題名役を演じた『オセロー』でイアーゴーを務め、妻のウータ・ハーゲンがデズデモーナを演じた。この公演は、アメリカで上演されたシェイクスピア劇の続演として最長の296回を数え、いまも記録を保つという。1946年に初めて演じた『シラノ・ド・ベルジュラック』は代表作となり、1947年に新設されたトニー賞の主演男優賞を受けた。
この役を1950年の映画版でも演じ、アカデミー主演男優賞とゴールデングローブ賞を得て、ヒスパニック系として、またプエルトリコ生まれの俳優として初めてのアカデミー賞受賞者となった。1948年の『ジャンヌ・ダーク』ではシャルル7世を演じて映画デビューし、助演男優賞の候補にもなった。『赤い風車』(1952年)ではロートレックを演じて二度目の主演男優賞の候補に挙がり、『ケイン号の叛乱』(1954年)では弁護士バーニー・グリーンウォルドを演じた。1952年までに二度目のトニー賞も受け、演出家としても評価された。1955年には『生き残った二人』を監督し、1958年にはアルフレッド・ドレフュスを演じた映画を自ら監督した。『アラビアのロレンス』(1962年)ではトルコ人のベイ、『愚か者の船』(1965年)ではジークフリート・リーバー、『砂の惑星』(1984年)では皇帝シャッダム4世を演じ、1970年代にはテレビにも数多く出た。1961年11月に来日している。
1981年にアメリカ劇場殿堂入りし、1985年にはレーガン大統領から全米芸術勲章を受けた。俳優としては初めての受章だった。俳優ミゲル・フェラーは息子、ジョージ・クルーニーはおいにあたる。1992年1月26日に没した。
同じ年に亡くなった人物
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- リチャード・ハーツホーン (1992年没)
- デニス・ハルム (1992年没)
- アンジェラ・カーター (1992年没)
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