伝記
アンソニー・パーキンスは、1932年4月4日にアメリカ合衆国ニューヨークのマンハッタンで生まれた俳優である。父は舞台俳優のオズグッド・パーキンスで、アンソニーが5歳だった1937年に亡くなった。家族が雇っていたフランス人の乳母の影響で、フランス語に堪能になったという。1942年、10歳のときに一家はボストンへ移った。若いころから俳優を志して舞台に立ち、映画デビューは1953年の『女優』である。翌年にはブロードウェイで『お茶と同情』に出演して高い評価を受けた。しばらく芽が出なかったが、コロンビア大学卒業後の1956年、ウィリアム・ワイラー監督の『友情ある説得』でアカデミー助演男優賞にノミネートされ、ゴールデングローブ賞の新人賞も受けた。この成功の後、パラマウントと7年契約を結び、同社最後の二枚目スターと見なされた。
パラマウント時代にはロマンティックな役を割り振られる一方、ブロードウェイの『天使よ故郷を見よ』でトニー賞候補になるなど、より劇的な役にも挑んだ。その後も、1957年の『ロンリー・マン』、1958年の『胸に輝く星』、1959年の『渚にて』などに出演し、1960年代を代表する青春スターとして人気を博した。1959年の『緑の館』ではオードリー・ヘプバーンと共演して自ら歌う場面で美声を披露し、1960年の『のっぽ物語』ではジェーン・フォンダと共演している。歌手としても「月影のなぎさ」というシングルを発表し、トニー・パーキンス名義でアルバムも残した。
1960年、アルフレッド・ヒッチコック監督の『サイコ』でノーマン・ベイツ役を演じ、強烈な印象を残した。この役はそれまでの彼のイメージを大きく変えるものだった。翌1961年には、イングリッド・バーグマンやイヴ・モンタンと共演した『さよならをもう一度』で、第14回カンヌ国際映画祭の男優賞を受賞した。1960年代後半から1970年代にかけては、ハリウッドの体質を嫌ったとされ、パリに在住してフランスなどのヨーロッパ映画に主演した。オーソン・ウェルズ監督の『審判』、ルネ・クレマン監督の『パリは燃えているか』などもこの時期の作品である。若々しさゆえに、30代後半でも学生役を演じることが多かった。1968年の『かわいい毒草』にも主演し、1970年の『キャッチ22』ではアメリカ映画批評家協会賞の助演男優賞候補になった。1974年にはアガサ・クリスティー原作の『オリエント急行殺人事件』で、久々の大作映画に復帰した。
1970年代にはCMや舞台、脚本の執筆にも携わり、1980年代は監督として新境地を開いた。1980年代に復活した『サイコ』シリーズの続編に主演し、『サイコ2』『サイコ3』のあと1990年に『サイコ4』にも出演した。『サイコ3』では監督も務め、サターン賞の主演男優賞候補となった。一方、同性愛説や大麻不法所持などのスキャンダルがキャリアの妨げとなり、主演作は続編やこれをなぞるようなホラー、サスペンスが大半で、個性を活かしきれなかったとされる。それでも1987年のテレビドラマ『英雄物語/ナポレオンとジョセフィーヌ』のタレーラン外相役では高い評価を得た。1978年にはベリー・ベレンソンと結婚し、二人の男児をもうけた。1992年9月12日、エイズによる合併症のため死去した。遺作は、没後一か月ほどで放送されたテレビ映画である。次回作で起用を決めていたダリオ・アルジェント監督は、『トラウマ/鮮血の叫び』のジャド医師役をパーキンスに想定していたといわれる。
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