伝記
ソースティン・ヴェブレンは、1857年7月30日に生まれ、1929年8月3日に没した、19世紀から20世紀初頭のアメリカの経済学者であり、社会学者である。ウィスコンシン州のノルウェー移民の家庭に、12人の子どもの第6子として生まれた。母語はノルウェー語だったが、近所の人たちとのやり取りや学校で英語を身につけた。一家はのちにミネソタ州ナースランドの、ノルウェー移民の開拓地に移った。やがて農場が栄えると、両親は子どもたちに正規の教育を受けさせ、ヴェブレンのきょうだいも近くのカールトン・カレッジに進んだ。
1874年、17歳でカールトン・カレッジのアカデミーに入学した。牧師にしたいという父の希望もあったが、後年は宗教的な教えを退けて不可知論者を自認した。そこで若きジョン・ベイツ・クラークに経済学と哲学の手ほどきを受けた。卒業後は、1年間ルーテル派の学校で数学を教えたのち、ジョンズ・ホプキンズ大学に遊学して、論理学者のチャールズ・サンダース・パースに学んだ。翌年イェール大学大学院に入ってウィリアム・サムナーに師事し、スペンサー流の社会的ダーウィニズムや社会階層についての議論を教えられた。1884年に博士論文「因果応報説の倫理学的基礎」で博士号を取った。
だが、アカデミズムでは職を得られず、アイオワ州にあった父の農場で暮らす日々が続いた。ノルウェー人への偏見などが就職を阻んだとされるが、この間は貪欲に読書ができたという。1888年にはエレン・ロルフと結婚した(1911年離婚)。1891年に斡旋を得てコーネル大学の講師となり、翌1892年にシカゴ大学経済学部が開設されると、学部長ラフリンの誘いで同大学のティーチングフェローとなって、1900年に助教授に昇進した。シカゴ大学在籍中に『有閑階級の理論』(1899年)と『営利企業の理論』(1904年)を出版している。
1906年にスタンフォード大学へ移り、1910年にはミズーリ大学へ移った。第一次世界大戦が始まった1914年にノルウェーを訪れ、アン・ブラッドリーと再婚して2人の娘の継父となった(1920年に妻が死亡)。翌1915年には『ドイツ帝国と産業革命』を出版した。その後はウィルソン大統領の政策スタッフに起用され、ニューヨークで雑誌『ダイヤル』の編集者を務めたが、編集方針をめぐって辞職した。デューイらとともにニュースクールの創設メンバーとなり、教員も務めたが、1927年に職を辞してカリフォルニア州パロアルトの山荘に引きこもった。1929年8月3日に同地で72歳で亡くなり、世界恐慌のきっかけとなった暗黒の木曜日は、その82日後であった。
『有閑階級の理論』は、黄金時代の富豪たちの生活様式を人類学の言葉で説明し、邸宅や贅沢な調度品、パーティー、豪華な衣装を、野蛮人たちのポトラッチや羽根飾りと同列に見なした。「誇示的消費」「誇示的余暇」といった印象深い用語と特異な文体で、当時の読書界に反響を呼んだ。『営利企業の理論』では、物を作る産業と、金儲けの手段である営利企業とを二分し、営利企業は産業を推進せず、むしろ侵食すると論じた。1921年の『技術者と価格体制』は、技術者による生産の統制を主張し、のちに論じられる「所有と経営の分離」の問題をすでに提出していた。制度派経済学の創始者と呼ばれるが、まとまった学派をつくったとは言い難く、その知見は大恐慌とケインズ学派の受容後に再発見された。影響はジョン・ケネス・ガルブレイスらに及んでいる。
同じ年に亡くなった人物
- Abd al-Muhsin as-Sa'dun (1929年没)
- Nurkhon Yuldashkhojayeva (1929年没)
- 梁啓超 (1929年没)
- フランツ・ローゼンツヴァイク (1929年没)
- Fausto Zonaro (1929年没)
同じ地域に関係する人物
- ジェフ・ラスキン (2005年没)
- スティーヴン・トゥールミン (2009年没)
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- ハーヴ・プレスネル (2009年没)
- アレクサンダー・ホール (1968年没)