伝記
佐野理平は、1912年9月21日に静岡県で生まれた、サッカー選手でありサッカー指導者である。ポジションはゴールキーパーで、日本代表として1936年のベルリンオリンピックに出場した。静岡中学(現在の静岡高校)を卒業したのち、東京の早稲田大学に進み、大学のチームである早稲田WMWでプレーした。
ポジショニングの良さと俊敏な動きが持ち味のキーパーだった一方で、空中戦や接触プレーには難があったとされる。当時の日本国内では、キーパーへの体当たりが反則として取られず、キーパーを故意に狙うことが常套手段だったため、身体能力に優れる不破整と併用されるか、不破のほうが出場機会を得ることもあった。ところが、ベルリンオリンピックに向けて欧州のクラブチームと練習試合を行った際、本場の欧州ではキーパーに対する反則が厳しく取られ、審判から守られることを知ると、本来の長所を発揮できるようになったという。
1936年のベルリンオリンピックでは、1回戦でスウェーデン代表と対戦した。優勝候補を相手に好セーブを連発し、日本が後半に2点を挙げて逆転勝ちした「ベルリンの奇跡」の立役者の一人となった。日本がオリンピックで挙げた初めての勝利で、このときの代表チームは2016年に日本サッカー殿堂に選ばれている。ただし、慶應義塾大学の津田幸男らが台頭したこともあり、日本代表としての出場はこの大会の2試合にとどまり、もう1試合は次戦のイタリア戦だった。国際Aマッチでの得点はない。
1937年には早稲田大学ア式蹴球部の主将を務め、1938年に大学を卒業して三井鉱山(現在の日本コークス工業)に入社した。1939年11月には、太平洋戦争のため召集された。戦後の1956年5月には、メルボルンオリンピックに臨むサッカー日本代表のコーチに就任している。その後は三井三池製作所の常務などを務め、1992年3月26日に79歳で死去した。実兄の佐野嘉吉は衆議院議員を3期務め、第60代の静岡県議会議長となり、甥の佐野康輔は第100代の静岡県議会議長を務めた。
同じ年に亡くなった人物
- フランシス・ペラン (1992年没)
- アルパド・イロ (1992年没)
- マレーネ・ディートリヒ (1992年没)
- カイソーン・ポムウィハーン (1992年没)
- ピーター・ミッチェル (1992年没)