HISTORICAL PERSON · 1992年没

マレーネ・ディートリヒ

ドイツ出身の女優・歌手。ヴァイマル期のドイツ映画で花開き、1930年代からハリウッドで活躍、1950年代以降は歌手活動が中心だった。

生涯
1992年没
死亡地
フランス共和国(パリ / 8区)
出生地
ドイツ連邦共和国(ローテ・インゼル)
出典
世界地図
フランス共和国(パリ)

伝記

マレーネ・ディートリヒは、1901年12月27日、プロイセン王国近衛警察士官の次女としてベルリンに生まれたドイツ出身の女優・歌手である。幼くして父が病死し、継父も第一次世界大戦で戦死したため、生活費を稼ぐために酒場などで歌っていたという。18歳で国立ヴァイマル音楽学校に入りヴァイオリニストを志したが、手首を痛めて断念した。1921年にマックス・ラインハルトの演劇学校に入学し、翌年9月に舞台デビューした。1924年には助監督のルドルフ・ジーバーと結婚して娘マリアを出産したが、カトリックの夫は離婚が認められず、二人は別居となった。

1930年、ベルリンの舞台に立っていたところを映画監督ジョセフ・フォン・スタンバーグに認められ、ドイツ最初期のトーキー作品『嘆きの天使』に出演した。大きく弧を描く細い眉に象徴される退廃的な美貌と、「100万ドルの脚線美」と称えられたスタイル、セクシーな歌声で国際的な名声を得た。同年、パラマウントに招かれて渡米し、ゲイリー・クーパーと共演した『モロッコ』でハリウッドデビューを飾り、アカデミー主演女優賞にノミネートされた。1932年の『上海特急』ではグレタ・ガルボと並ぶスターの座を確立し、スタンバーグとのコンビで黄金時代を築いた。1935年の『西班牙狂想曲』がヒットしなかったのを最後に、スタンバーグとの関係を解消してしばらく低迷した。ヒトラーは彼女を気に入っていたようで帰国を要請したが、ナチス党を嫌った彼女は断り、1939年にアメリカの市民権を取得した。このためドイツでは彼女の映画が上映禁止となった。

第二次世界大戦が始まると、西部劇やブロードウェイの舞台でも活躍した。1943年からはアメリカ軍の前線兵士慰問機関USOの一員としてヨーロッパ各地を巡り、反ドイツの立場を明確にした。戦地で兵士が口ずさんでいた『リリー・マルレーン』を覚え、対独放送でも歌った。1944年、アルデンヌで慰問中に急襲してきたドイツ軍に捕えられそうになったが、直前に回避したという。1945年5月、解放されたベルゲン・ベルゼン強制収容所に姉エリーザベトがいると知って向かった。自分が反ナチスであるために姉が収容されたと考えていたが、実際には姉は夫と共にドイツ軍人用の映画館を経営しており、客には収容所の看守もいた。衝撃を受けた彼女は、生活の援助はするが姉であることは口外しないよう約束させた。1947年にはアメリカから大統領自由勲章、フランスからレジオンドヌール勲章を授与された。

戦後は映画出演の機会が減ったが、ラスベガスでのリサイタルが成功し、1950年代からは歌手としての活動が中心となった。1958年からバート・バカラックと組み、1960年には念願の故郷ドイツで公演を行い、「裏切り者」と罵声を浴びせられながらも暖かい歓待を受けた。1975年9月、シドニーでのコンサート中に足を骨折して引退し、以後はパリに隠棲した。1989年のベルリンの壁崩壊の際には、「私は生粋のベルリンっ子よ、素晴らしいわ私の街は自由よ」と語ったという。1992年、パリの自宅で死去し、遺骸は望みどおりベルリンの母の墓の横に葬られた。死後、ポツダム広場に隣接する広場が「マレーネ・ディートリヒ広場」と命名された。

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