伝記
ジョン・ミルトン・ケージ・ジュニアは、1912年9月5日にカリフォルニア州ロサンゼルスで生まれたアメリカの作曲家である。実験音楽家として前衛芸術全体に影響を与え、詩人、思想家、キノコ研究家の顔も持った。父は発明家で、1912年に潜水艦を建造して当時の世界記録を更新したが、ガソリン・エンジンだったため兵器には採用されなかった。ケージは家族の転居で多くの学校に通い、サンタモニカでピアノを習い始め、高校を優秀な成績で卒業した。ポモナ・カレッジに入学したものの学業への興味を失い、渡欧を計画した。
1930年にパリで建築家エルノ・ゴールドフィンガーに建築を学んだのち、マジョルカ島で初めて作曲をしたが、当時の作品は残っていない。翌年に帰国し、ピアニストのリチャード・ビューリックに頼み込んで音楽を学んだ。のちにヘンリー・カウエルの紹介でアルノルト・シェーンベルクに師事し、1934年から1937年にかけて南カリフォルニア大学の師のクラスで学んでいる。弟子入りのとき「一生を音楽に捧げる気があるか」と問われて「はい」と答え、和声の感覚がないと打ち明けた際には、それは通り抜けられない壁になると告げられたが、「それなら、壁に頭を打ち続けることに一生を捧げます」と応じたという。初期の作品には音列処理をもつものが多く、打楽器合奏のための『コンストラクション』ではウォーター・ゴングなど新しい奏法の発想も芽を出し始めた。
1940年には、グランドピアノの弦にゴムや木片、ボルトなどを挟んで音色を打楽器的に変えるプリペアド・ピアノを考案した。1942年にマックス・エルンストの招きでニューヨークに出て画家たちと親交を持ち、1944年には生涯のパートナーとなるマース・カニンガムと最初のジョイント・リサイタルを行った。1945年からの2年間はコロンビア大学で鈴木大拙に禅を学び、東洋思想への関心を深めた。1948年にはブラック・マウンテン・カレッジで教え、バックミンスター・フラーや、生徒のロバート・ラウシェンバーグと交友を結んだ。
1951年にハーバード大学で無響室を体験し、体内から鳴る音を聴いて、沈黙をつくろうとしてもできないと悟ったとされ、この体験は作風に大きく影響した。同じころ中国の易を使い、貨幣を投げて音を決める『易の音楽』を作曲するなど、作曲に偶然性を持ち込むチャンス・オペレーションを始めた。1952年の『4分33秒』は、演奏者が4分33秒のあいだ楽器を弾かず沈黙を通す作品で、観客や会場内外の音に意識を向けさせる意図があったが、ふざけた振る舞いとみなす者と、画期的な音楽と評する者のあいだに論争を起こした。1954年には菌類学の勉強を始め、1962年にはニューヨーク菌類学会の創立にも関わった。
1962年には来日公演を行い、『0分00秒』が東京の草月ホールで初演された。1963年にはサティの『ヴェクサシオン』を、指示どおり840回反復して18時間かけて上演した。1989年には京都賞の思想・芸術部門を受賞した。晩年は題名が数字だけのナンバー・ピースを数多く書き、1992年8月12日、脳溢血のためニューヨークで亡くなった。構想していた展覧会「ローリーホーリーオーバー サーカス」は死後の1993年に実現し、日本では1994年から95年にかけて水戸芸術館で開かれた。ドイツのハルバーシュタットでは、「できるだけ遅く」を意味する指示をもつオルガン曲の演奏が、2000年から2639年にかけての予定で続いている。
同じ年に亡くなった人物
- ヴァンダ・ルトキエヴィチ (1992年没)
- ハニー・シーイサーン (1992年没)
- フランシス・ベーコン (芸術家) (1992年没)
- フランコ・クリスタルディ (1992年没)
- 尾崎豊 (1992年没)
同じ地域に関係する人物
- テリー・ソーチャック (1970年没)
- 呉健雄 (1997年没)
- トーマス・ドーティ (1856年没)
- Gusztav Juhasz (2003年没)
- フランソワ・セベール (1973年没)